200旭町:大山街道(7)
199渡辺崋山記念碑(万年屋跡):大山街道(7)
198厚木神社:大山街道(7)

(47)厚木神社

厚木社と書いてあるのかな。

東町郵便局前交差点に戻ってきた。今度はここを直進する。

ここが東町郵便局。

しばらく歩くと左側に厚木神社があった。

拝殿がある。

二つの柱が並んでいる。

関東大震災の恐ろしさを後世に伝えるためということで、先人は偉い!
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郷土の歴史
右の石柱
文政11年戌子夏6月に建立され大正12年9月の関東大震災にて崩壊した鳥居の柱に震災の恐ろしさを後世に伝えるための碑とした。 文政11年(西暦1829年)
左の石柱
明治6年7月30日 厚木神社が郷社に列格奉祝記念碑
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厚木の渡しの厚木側は昔は「天王町」といったらしいが、「お天王様」と繋がるのかな?
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あつぎお天王様の地
平安時代より疾病除けの神として牛頭天王が祀られ那須与一も眼病祈願をし、厚木のお天王様として親しまれた。
夏祭りはお盆とも重なり近郷近在より、田植え後の老若男女が繰りだし露店は見世物小屋も掛かり、人の波で沸き、賑やかさを呈した。
現在は、厚木神社と称し尊崇されている。
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197厚木の渡し・渡辺崋山来遊記念碑:大山街道(7)

(44)渡辺崋山来遊記念碑、(45)厚木の渡し

明治地図では赤丸あたりだろう。

厚木の渡しと渡辺崋山来遊記念碑の全景である。

案内板があった。
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厚木市指定史跡 厚木村渡船場跡
昭和36年10月21日指定
この地は、矢倉沢往還や藤沢道、八王子道が相模川を渡る渡船場で、常時5艘の舟が備えられ、旅人に利用されていました。
江戸時代に刊行された「新編相模国風土記稿」の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。
この渡船場の厚木側の権利は、厚木村と溝呂木家が持っていました。溝呂木家の権利は、徳川家康から与えられたものと伝えられています。
天保2年(1831)9月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡辺崋山は「厚木六勝」図を残していますが、その一つ「仮屋喚渡」は、この場所を描いたものです。
明治41年(1908)、相模橋の開通によって、この渡船場は廃止され、その役目を終えました。
平成3年3月
平成21年3月再調 厚木市教育委員会
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すごろく手ぬぐいにも厚木の渡しが描かれている。

これが、渡辺崋山来遊記念碑である。

こちらは厚木の渡しの石碑。
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相模川をわたるために設けられた渡船場で、海老名市河原口とをむすび、5隻の船で往来していた。
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相模川がこのように見える。渡し舟が盛んだったころはどんな風景が広がっていたのだろう。

振り返ると「Nagashima」という床屋が。創業を見てビックリ! なんと1701(元禄14)年! 18世紀最初の年である。街道沿い、おそるべし。
196東町商店会:大山街道(7)

(46)東町商店会

おそらく赤丸のあたり。

相模大橋を渡り切った。

この東町郵便局前交差点を右折する。後ほどここにはまた戻ってくる。

東町商店会に入った。左手には和菓子屋の菊屋政房。なんと創業天明元(1781)年である。街道沿いの和菓子屋、おそるべし。

シャッターにいろいろな絵が描かれている。これは「だんご」と「御休所」だ。

こちらはけやき薬局で、「薬種」「薬局方」など。

ここはあゆみ橋西入口交差点。右折すればあゆみ橋だが、直進する。

島崎金物店。シャッターの絵がみにくい。

こちらは「うなぎ」。昔は天然物かなぁ。

石村集文堂・栄光堂。「本」「草双紙」など。

履物 松元。「本履物」とある。

「紳士用品 林屋」となっている。

「庭球屋」「張り屋」。

タオルの伊予忠。今治タオルかな?

「せともの」

交差点を直進する。

その先にも「おだんご」「まんじゅう」とある。なかなか楽しい。
195相模大橋:大山街道(7)
194宗珪寺移転:大山街道(7)
193海老名氏霊堂:大山街道(7)

海老名氏霊堂。青い実線は圏央道。

おそらく赤丸のあたりだろう。

庚申塔と道祖神のあった場所に戻り、ここを右折する。

右側に建売の住宅が数軒ならんでおり、大山が正面に見えている。

右手には野菜の無人販売所がある。

ここが有鹿幼稚園。

やっと海老名氏墳墓入口の石碑があった。

右折してここを進む。

ここが霊堂である。

説明文があった。
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海老名氏霊堂
海老名氏は、村上源氏の流れをくむ武蔵横山党の一派で、平安時代の12世紀頃には海老名の地に進出して来ていたと考えられています。
中でも海老名源八季貞は保元の乱で奮戦し、曽我物語などにもその名が出てくるなど有名な武士です。
海老名氏の菩提寺は、現在は廃寺となっている宝樹寺と伝えられ、その跡地が霊堂のあるこの周辺一帯と考えられています。堂内には、海老名氏縁のものと伝わっている宝篋印塔や五輪塔が安置されています。
霊堂周囲にある河原口坊中遺跡からは、12~14世紀の建物跡やかわらけなどの遺物が多く出土し、宝樹寺の存在と合わせてこの辺り一帯が海老名氏の本拠地であったと考えられています。
海老名市教育員会
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霊堂内の様子。
192有鹿神社:大山街道(7)
190庚申塔・道祖神:大山街道(7)
189河原:大山街道(7)
188圏央道:大山街道(7)
187七曲:大山街道(7)
186庚申塔:大山街道(7)

青い実線は圏央道。


右折すると正面に大山がみえる。

そしてここは直進。

左手には歴史資料収蔵館がある。

そして案内板があった。
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江戸・国分 大山道 厚木・大山
河原口村を通る大山道は、曲がり角が多いために「七曲」と言われていました。この先で南北に通る「八王子道」と合流します。二本の道が出会う付近には、かつて蕎麦屋がありました。この先、「厚木の渡し」で相模川を越し、厚木宿、大山へと続いていきます。
江戸時代に「游相日記」を著わした三州田原藩士「渡辺崋山」は天保2(1831)年にこの大山道をたどり、厚木宿の旅籠「万年屋」に宿泊し、渡しの風景画(厚木六勝図の一つ)や、まちの様子をたくさん描き残しています。
また、徳川家康は、中原(平塚市)への鷹狩の帰路、「厚木の渡し」を渡り、隣村の中新田村に居を構えていた、かつての老臣「高水主水助清秀」を訪ね時服や雁等を下賜したと伝えられています。
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ここを左折。

児童館と書いてあるが、おひさまクラブとなっていた。

その先には庚申塔があった。
185二又の交差点:大山街道(7)
184一大縄:大山街道(7)
183海老名跨線橋:大山街道(7)
182海老名へ:大山街道(7)
181海老名駅入口:大山街道(6)
180銀星:大山街道(6)
179大ケヤキ:大山街道(6)

(29)大欅(けやき)

矢印の場所が大欅の場所だろう。

国分寺跡から元の場所に戻る。

まっすぐ進むと大欅があった。

推定樹齢は560年以上で、漁師が舟を繋ぐ杭を打ちこんだところその杭から芽がでたという伝説があるそうだ。国分宿の西には海(川)が広がっていたのだ。
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神奈川県指定天然記念物
海老名の大ケヤキ
昭和29年3月29日指定
このケヤキは、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり、以来、人々が保護し育ててきたものと伝えられている。根回り15.3メートル、目通り7.5メートル、樹高20メートルに達する大ケヤキである。
ケヤキはニレ科の温帯性落葉高木で、県下でも沖積地や台地斜面などに自生しているため昔から親しまれてきた。屋敷内には植栽されることも多く、しばしばケヤキの見事な屋敷林も見かける。
もともとこのあたりでは、ケヤキ林が自然植生として栄えていた。昔の人が生活の知恵から打ちつけた杭も、ちょうどこの土地に合ったものを使ったため、現在見られるほどの見事なケヤキに生長したものと推定される。郷土を代表する木として、永く保存する必要があり、県指定天然記念物に指定したものである。
神奈川県教育委員会
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歩道橋を渡らずにまっすぐ進む。

旧国道246号線と合流し、ここを右へ。

国分坂下交差点を直進。

中央公園入口を右折する。
178温故館:大山街道(6)

(26)温故館→赤丸の場所に移転

赤丸の場所が移転した温故館の場所

温故館は国分寺跡の近くに移転していた。気がついてよかった。

中に入って学芸員(?)の方の説明を聞いた。当然ながらよく知っている。国分寺だけでなく、この周辺でいろいろな遺構が発見されているようである。来館記念のスタンプはいろいろなものがそろっている。

温故館のパンフレットをいただいた。元は海老名村の村役場で、昭和57(1982)年から海老名市郷土資料館となり、平成23(2011)年に移転再オープンとなったようだ。
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温故館の歴史
温故館は、相模国分寺跡が国指定史跡となった大正10(1921)年に国分寺跡保存整備事業の一環として、考古資料等を保管・展示するため、尋常高等海老名小学校(現在の海老名市立海老名小学校)の校庭に設置された「遺物陳列館」がその始まりです。
温故館は、関東大震災により倒壊しましたが、まもなく海老名村役場敷地に再建され、その後国分寺中門跡付近など数度の移転を経て、旧海老名村役場の保存を機に、同建物を温故館とすることになりました。昭和57(1982)年に開館した海老名市温故館ですが、老朽化のため耐震補強工事が必要となり、現在の場所に移築し、平成23(2011)年に再オープンしました。(パンフレットより)
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177相模国分寺跡(3):大山街道(6)

相模国分寺跡の説明文があった。

法隆寺に似た建物配置で、東西240メートル、南北300メートル以上と有数の規模を誇っていたようだ。
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奈良時代、聖武天皇は仏教の力で国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で周囲を囲んでいます。その外側は素堀りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と諸国の国分寺跡の中でも有数の規模を誇ります
七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。瓦は乗越瓦窯(横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(東京都町田市)などで焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川跡は、これらの資材を運ぶために人工的に開削された運河とみられています。
通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(平塚市)、国分寺は国府から約12キロも離れた高座郡(海老名市)におかれました。これは大住郡と高座郡の郡司が壬生氏という同じ氏族であったからではないかとされています。ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、二寺が並び立つ様子は壮観だったことでしょう。
相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれています。
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「National Historic Site Sagami Kokubunji Temple Remains」。英語表記がなんだかオシャレだね。

ここは寺の僧が生活していた僧房跡である。東西81メートル以上と長い建物で、9区画に仕切られていた。

僧房の遺構も埋め戻して保存してあるそうだ。
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ここに、国分寺の僧が集団生活をしていた施設である僧房がありました。僧房は塔や金堂、講堂とともに奈良時代の寺院を構成するために必要な建物でした。1966年と1996年に行われた発掘調査により、東西81m以上の長大な建物で、東西9m、南北6.57mを1居住単位とし、9区画以上に仕切られていたことなどが確認されました。
柱穴を調べたところ、柱の下部を地中に埋める掘立柱建物から、柱を礎石の上に建てる礎石建物へ建て替えられたことも判明しました。柱は直径約30cmと推定され、柱が沈み込まないよう根元に石や瓦を置く礎板も見つかりました。さらに、掘りなおされた痕跡が確認されたもの、柱穴の中に焼けた瓦や土器が廃棄されたもの、焼けた土で埋め戻されたものが確認されました。
これらのことから、火災などによって2回の建て替えがあったものと考えられます。
見つかった僧房の遺構は、長く将来に伝えていくために埋め戻し保存し、その上に僧房の規模や構造がわかるよう、壁や柱の位置を表示しています。
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176相模国分寺跡(2):大山街道(6)

ここは七重塔の跡である。

七重塔です! 三重でも五重でもありません。高さ65メートル、基壇一辺は20メートルと壮大です。8世紀によくこんな建造物をつくったものです。
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ここは741(天平13)年の「国分寺建立詔」をうけて建てられた七重塔の跡です。国分寺の塔には、国家の平安を祈る金光明最勝王経が安置されていました。
1966(昭和41)年と1993(平成4)年に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、一辺の長さが20.6m、高さは1.3mの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、塔の初重の広さは、10.8m四方で、塔の高さは約65mあったと推定されています。
塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺物が出土しています。
また、基壇周辺で発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました。
創建時の基壇は、現在復原されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積み)につくり替えられています。
石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定され、両方とも凝灰岩質の石です。
10個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれる礎石3個と新たな石4個を使って復原・補充しました。
基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、創建時の基壇よりも35㎝低く復原しました。
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立派な七重塔の想定復元図である。
175相模国分寺跡(1):大山街道(6)

(27)相模国分寺跡

赤丸のあたりだろう。

細い道を進むと右側が広大な広場になっている。ここが国分寺跡である。

史跡相模国分寺跡という石碑がたっている。大正14年に建立されている。


中門と回廊跡である。遺構は地下に埋め戻してあるそうだ。
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ここには、塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とその中に入るための正門である中門がありました。
1966年と1993年に行われた発掘調査の結果、中門は東西21m×南北11m程の土台(基壇)上に建つ瓦葺きの建物だったと推定されています。
廊跡からは、礎石上に柱の痕跡があるものが7基みつかり、周辺から瓦が多く出土しました。回廊は一般的に東西南北に廻らされますが、相模国分寺では東面が築地塀であったことが確認されており、西面についての詳細は不明です。
現在、遺構は地下に埋め戻して保存し、その上に中門と回廊の範囲を表示しています。
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民家の向こうにはViNA WALKの看板が見える。海老名駅にもかなり近い場所なのである。
174道標:大山街道(6)

(25)道標

明治地図では赤矢印のあたりであろう。このあたり(国分宿)の街道沿いにも民家が多い。南北の道は八王子道らしく、大山街道と交差し、とても賑わっていたらしい。

左へ行くと国分寺台へ行くが、ここを直進する。

右側に道標などが集まっている。

「東 江戸・つる間 南 藤沢・かま倉」

「西 大山・あつ木 北 八王子・ほしのやと」。ほしのやととは座間の「ほしのや観音」のこと。

さらに進む。

右側に案内板がある。

「史跡相模国分寺跡歴史公園案内板」で相模国分寺跡の説明がある。現在地のすぐ近くの赤い建物は(26)温故館だが、空き地になっていて何もない(一つ前の写真参照)。

仕方がないのでこの細い路地を通って相模国分寺跡に行ってみる。
173伊勢山自然公園・逆川碑:大山街道(6)

(23)伊勢山自然公園、(24)逆川碑

赤丸で伊勢山自然公園、赤矢印は逆川碑の場所。

伊勢山自然公園脇の道にでた。

ちょっと公園に寄ってみよう。

階段と坂道を登っていく。本当に「自然」公園でありところどころにベンチが置いてある程度だ。トイレもない。

公園から戻ると、そこは伊勢山公園前交差点。

交差点の右側に史跡逆川という石碑があった。

逆川とは逆の流れ方をしていた灌漑用と運送用に掘られた運河のことだ。日本最古の運河らしい。
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逆川の由来
逆川(さかさがわ)は大化の改新が行われたころ条里制による海老名耕地のかんがい用と運送用に掘られた川といわれています。
その全長は約2.5キロメートル、ここから凡そ1キロ上流で目久尻川を堰き止めて分水し、この地点で相模横山をよこぎり西北方に流れをとり、今泉境で耕地に注ぎ出ました。このような逆の流れ方をしていたので「逆川」の名が生まれたのでしょう。
なお舟着場と呼ばれたところから下流は日本最古の運河として平安中期まで利用されていたようでその遺構は今なお地下に眠っています。
後世、流れの向きを変えて「新堀」といい昭和15年ごろまで国分・大谷・今里・杉久保・上河内・中河内・本郷・門沢橋・倉見・宮山などの田をうるおしていました。
現在この地点より先は埋め立てられ舟着場付近のみわずかにむかしの面影を残しています。
昭和57年3月27日 海老名市教育委員会
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先ほどの目久尻橋と石橋供養塔で出てきた、目久尻橋にかけた石橋の石がこれである。
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この石は、その昔大山街道の交通の便をはかるため、目久尻川にかけた石橋の石で、大正12年の関東大地震のとき川に落ちたものを昭和52年12月河川改修のとき引き上げたものです。これに宝暦7年(1757)に国分の重田七三郎翁が企てた石橋勧進帳の木版が残っておりこの架橋のありし日を物語っています。
昭和57年3月27日
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172道祖神・石橋供養塔:大山街道(6)

(20)道祖神、(21)目久尻川、(22)石橋供養塔

(20)道祖神を赤丸で、(22)石橋供養塔を赤三角で記した。

児童公園から坂をくだる。

正面には大山がくっきりと、と言いたいところだが山頂には雲がかかりはじめた。

さらに道を下り、つきあたりを右に曲がると右手に道祖神がある。

旧国道246号線に出て左に進む。

すぐある川は目久尻川。

それほど大きな川とは思えないが一級河川ということだ。

目久尻橋を渡るとすぐに国分コミセン前交差点。

そこを右折して目久尻川に沿って歩くと右側のフェンス越しに石橋供養塔がある。目久尻橋を石橋に架け替える募金活動を行った重田七三郎の功績をたたえてある。

ここを左折する。

細い道を進む。