
こちらが本殿である。

本殿の右側には松下村塾がある。本物は萩にあるがそれを模して建てられている。
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松下村塾
松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。
松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月まで、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築が行われました。松陰先生が名実ともに公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5か月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施したの年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄随、高杉晋作、野村靖、山県有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。
本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。
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松下村塾での教育
松下村塾聯(松下村塾の床の間に掲げられていた言葉)
万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。
一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。
大意:多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になりえるだろうか。
自分の労苦をいとう者にどうして人々の安らかな生活を築くことができようか。決してできない。
萩の松本村にあったということで松下村塾と名付けられれ1856年8月頃から1858年末までの2年半ほどの期間、松陰先生は塾生に教育を施しました。
教育の目的は、
「君臣の義」(君主と臣下の間で守るべき正しい道)
「華夷の弁」(日本と外国との違いを明確にすること)
「奇傑非常な人」(人並み外れた優秀な人材)
を育むことでした。身分に関係なく誰でも入塾でき、先生は塾生それぞれをよく観察、記録し、そこで気付いた大切なことは手紙にして渡しました。先生が手を加えて正していく教育ではなく、自分で気づかせ、個性を生かす心の通い合う教育でした。塾で学んだ塾生は総勢90名前後と言われており、彼らの活躍あって現在の日本があるのです。
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この奥の部屋で教育がされていたのであろう。

右横には塾長室があった。

ここにも吉田松陰像があった。

松陰先生50年祭および100年祭の記念碑があった。

帰りに松陰神社前駅の手前で東急世田谷線の車両に遭遇。かわいらしい電車である。今日は鉄道旅ではないので、先を急ぐ。