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87電車とバスの博物館:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 駅に併設されている電車とバスの博物館に行ってみよう。

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 ここが入口である。

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 入口までの通路にギッシリとベビーカーが並んでいる光景にビックリ!!!

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 入場券がこちら。大人200円、子ども(3歳以上中学生まで)100円と入場料は安い。

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 館内は大きくわけて2フロアで、道路を挟んだ場所にもキッズワールドがある。

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 大きなジオラマがあった。

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 そして昔の路面電車が展示してあった。家族連れが多く中年オヤジ一人というのは珍しいようだ。

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 14時34分の各停中央林間行きで帰ることにする。

宮崎台1434→1438鷺沼 東急田園都市線 各停中央林間行き
鷺沼1440→1459中央林間 東急田園都市線 急行中央林間行き
中央林間1517→1521相模大野 小田急江ノ島線 快速急行新宿行き
相模大野1526→1545伊勢原 小田急小田原線 急行新松田行き

86宮崎台駅:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (10)宮崎第二公園
 
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 ★10宮崎第二公園の交差点

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 庚申坂を進むと今度は逆に登りになる。

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 左側に(10)宮崎第二公園がある。

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 そして交差点を渡る。

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 さらに坂を登る。

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 ここもかなり急な登り坂。アップダウンが多い地形だ。

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 ★11の場所を左折して宮崎台駅に向かう。

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 宮崎台駅に併設して電車とバスの博物館があるのでちょっと寄り道してみよう。

85王禅寺道&庚申坂:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (8)王禅寺道
 (9)庚申坂

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 (8)王禅寺道がはっきりと描かれている。★1はおそらく宮崎団地前交差点で、★10はおそらく宮崎第二公園の交差点で、★1~★10の間が庚申坂であろう。

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 宮崎大塚から戻り、しばらく真っすぐ歩く。

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 しばらく行くと右斜めに入っていく道がある。これが(8)の王禅寺道である。

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 さらに進むとやや下り坂で左カーブになっている。

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 カーブに差し掛かった場所が宮崎団地前交差点である。

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 右斜め前方の細い道を下っていく。

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 かなり急な下り坂だ。

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 「庚申坂」と書いた案内板があった。

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 昔、この坂の近くに「庚申堂(こうしんどう)」があったことから、庚申坂と呼ばれていました。大山参りの人々などが庚申堂に立ち寄り道中の安全を祈ったと言われています。
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84宮崎大塚:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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(6)宮崎大塚

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三角点の記号があるので(6)が宮崎大塚である。平成地図で大山街道(迂回路)と記されている道も宮崎大塚から南下しているのがわかる。

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 ここが宮崎中学校入口交差点で、ここを斜め左に進む。

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 少し迷ったが大塚らしいものを発見できた。

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 登ると「馬絹大塚供養塔」と書いた大きな石碑があった。

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 そのそばには三角点が確認できた。

83梶ヶ谷交差点:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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(4)梶が谷交差点

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 梶が谷交差点はおそらく(4)のあたりだろう。

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 道標から進むとゆるやかなカーブとなる。

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 大きな道にぶつかる。ここが国道246号線である。車の往来が激しい。交差点には末長歩道橋がある。

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こちらが国道246号線厚木方面。

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こちらは国道246号線渋谷方面。

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 こちらがこれから歩いて行く方向で、赤矢印の道を進む。

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 歩道橋を降りて進む道を再確認。赤矢印の方向だ。

82道標:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (3)道標・庚申塔

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 (3)道標・庚申塔

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 このあたりの大山道には道路に青い石が埋まっており見分けやすい。

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 この交差点を左折すれば梶が谷駅に行くが、直進する。

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 そして(3)の道標へ。

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 手前のネギは供え物なのかな。

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 「右大山道」としっかり書いてある。

81笹の原の子育て地蔵:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (30)地蔵堂

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 (30)地蔵堂

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 地図の(30)の場所までやってきた。
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川崎歴史ガイド:大山街道ルート
笹の原の子育て地蔵
子育て地蔵は、いわば「子授け地蔵」でもある。昔、西国巡礼から戻った村人が、子を授かったお礼に建てたという。地元が講を作って守り続け、今も、子授けを願う人の姿がみえる。
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 これが地蔵堂の全体像。

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 こちらがお地蔵さん。

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左から、坂東、西國、秩父とあり、供養塔となっている。日本百観音霊場(西国三十三ヵ所・坂東三十三ヵ所・秩父三十四ヵ所)を意味しているのだろう。

80ねもじり坂:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (28)片町十字路
 (29)ねもじり坂案内板

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 (28)片町十字路
 (29)ねもじり坂案内板

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 (28)は平成地図では片町十字路となっているが、実際には高津区役所東側交差点だった。

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 旧道カーブを登りながら歩いていく。

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 まだまだ続く。

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 (29)の場所についた。
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川崎歴史ガイド:大山街道ルート
ねもじり坂
 「ねもじり」とは、丘陵の根で迂回していることに由来するとの説があるが、定かではない。昔は今よりも急坂で東京へ野菜を運び、帰りには下肥を積んでくる牛車・荷車などにとっては、別名「はらへり坂」とも呼ばれた難所であった。
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 「ねもじり坂」とは面白い名前だ。

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 難所というだけあってかなりの急勾配である。

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右側には天理教末長分教会があった。

79まっち棒溝の口店:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

 二子新地駅から溝の口までは前回歩いているので電車で移動する。

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 そして溝の口駅でスマホアプリのラーメンマップを開き、昼食をまっち棒で食べることとした。

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 紀州和歌山らーめんのまっち棒。基本の中華そばを注文。「ライスが無料で、100円プラスで餃子3個つけますが?」ということだったが、中華そば単品のみとする。

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 縁がピンクのかまぼこが乗るのが和歌山らーめんの特徴の一つ。そして豚骨醤油味。

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 麺は細めのストレート麺。美味しいラーメンだった。ごちそうさまでした。

二子新地1240→1244溝の口 東急大井町線 各停溝の口行き

78二子橋:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 二子玉川交差点に差し掛かった。ここを右折して二子橋で多摩川を渡る。

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 すぐ左側には東急二子玉川駅のホームがある。

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 青空の下に多摩川が穏やかに流れている。

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 電車が走ってきた。

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 二子橋を渡り切り、川崎市側の二子橋交差点である。

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川崎歴史ガイド:大山街道ルート
二子の渡し
 二子橋の完成は大正14年。それまで、街道を行く人々はここ二子の渡しから多摩川を渡った。徒歩船、馬船。河原には茶屋、蕎麦屋。船待ちや川遊びで、渡し場は大いに賑わった。
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 橋が完成した時の人々の喜びはすごかったのでしょうね。渡し船の関係者にとっては悲惨なことかな?

77二子玉川商店街:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 ★1 二子玉川小学校入口交差点
 (24)大山道の碑

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 ★1 二子玉川小学校入口交差点
 (24)大山道の碑
 (26)二子玉川交差点

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 NTT瀬田前交差点から先は二子玉川商店街となる。

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 セブンイレブンがあった。

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 ★1の二子玉川小学校入口交差点である。賑やかになってきた。

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 正面の高架は国道246号線の新丸子橋である。

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 ゆるやかな旧道カーブをさらに進む。

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 突き当りの右側の飲食店の駐車場脇に大山道の碑があった。

76治大夫橋&次大夫堀:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (23)次大夫堀(白地に黒文字)

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 (23)次大夫堀

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 瀬田玉川神社を後にして、さらに坂を下る。

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 右には身延山関東別院玉川寺があった。

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 そしてNTT瀬田前交差点にやってきた。

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 交差点の橋が治大夫橋である。

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 下を流れているのが丸子川で、こちらが上流。

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 こちらが下流である。

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 この丸子川のことを昔は次大夫堀と呼んだそうだ。

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 案内図と説明があった。

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治大夫橋・・次大夫堀の上を渡る大山道

大山道(おおやまみち)
 大山道とは、大山詣りの道のことで、大山は神奈川県伊勢原市にあります。世田谷を通る大山道は、江戸赤坂御門を起点とし、二子玉川で多摩川を経て、伊勢原から大山まで続いています。二子玉川には、ここ治大夫橋を渡る大山道と、行善寺の東側を通る大山道があります。

次大夫堀(じだゆうぼり)
 慶長年間、徳川家康が主として下流の六郷地方の米の増収をはかるため、代官小泉次大夫吉次に命じて切り開いた灌漑用水で、世田谷地方の人々は「次大夫堀」(同・六郷用水、現・丸子川)と呼んでいました。
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同じように「じ」と読むのに、どうして「治」大夫橋と「次」大夫堀とで字が違うのだろう? 謎だ!

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 地図にも赤い破線で大山道が描かれている。

75瀬田玉川神社:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (22)瀬田玉川神社

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 明治地図には瀬田玉川神社は書かれていない。

【追記】(21)「慈眼寺」の左下に神社のマークがありました。

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 慈眼寺を出ると、急な下り坂となる。

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 そして右側には瀬田玉川神社がある。かなり急な階段を登らなければならない。

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 階段の上から下をみるとこんな感じである。

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 さらに階段がある。

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 狛犬の間を通って進む。

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 鳥居の向こうに拝殿がある。

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 昔の鳥居が保存されていた。村社玉川神社鎮座と書いてある。

74慈眼寺:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (21)慈眼寺

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 (21)慈眼寺

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 瀬田教会を右折すると、下り坂の正面に見えるのが(21)の慈眼寺である。

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 参道の手前には笠付庚申塔があった。

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 坂を少し登ると慈眼寺となる。

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 正式には真言宗智山派喜楽山教令院慈眼寺という。

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 ここが本殿である。

73大空閣寺&瀬田教会:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (19)大空閣寺
 (20)瀬田教会

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 明治地図には大空閣寺と瀬田教会は記載なし。

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 そして(19)の大空閣寺である。

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 こちらが正面で、右から順に大空閣寺、虚空藏菩薩、地蔵菩薩と書かれている。

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 さらに進む。

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 ここが(20)のカトリックの瀬田教会である。

72環状八号線:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (23)延命地蔵(黒地に白文字)
 (19)大空閣寺
 (20)瀬田教会
 (21)慈眼寺
 (22)瀬田玉川神社
 (23)次大夫堀(白地に黒文字)

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 (23)延命地蔵
 (21)慈眼寺
 (23)次大夫堀

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 真福寺や田中橋は前回も通っているので報告はパス。(23)の延命地蔵の場所を右手に入る。

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 こちらの道を進む。

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 のどかな雰囲気である。

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 やがて環状八号線にぶつかる。このまま真っすぐには渡れない。

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 右折して横断歩道を探す。

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 瀬田郵便局前交差点に信号と横断歩道があるので渡る。

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 さらに先を進む。

71弦巻四丁目~用賀追分:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (17)弦巻四丁目交差点
 ★1 陸上自衛隊交差点

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 (17)弦巻四丁目交差点(世田谷村道と書いてある)
 ★1 陸上自衛隊交差点
 (19)用賀追分

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 ここが(17)の弦巻四丁目交差点。

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 そしてファミリーマートの一角には道標があり、馬頭観音と書かれている。

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 このあたりは小綺麗なマンションが多く閑静な住宅街である。

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 ここが★1の陸上自衛隊交差点である。

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 ★1 陸上自衛隊交差点
 (19)用賀追分

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 狭い道路が続いている。

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 上用賀一丁目交差点を過ぎるとさらに道路が狭くなる。

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 この先もまだ直進する。

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 しばらくすると下り坂になってきた。

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 (19)の用賀追分である。大山道追分と記されている。

70大山街道旅人の像:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 ★3 大山街道と世田谷通りの交差点
 ★2 世田谷通り裏の交差点
 ★4 交差点
 (14)桜小前交差点
 (15)石碑
 (16)大山街道旅人の像

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 ★2 世田谷通り裏の交差点
 (14)桜小前交差点
 (15)石碑
 (16)大山街道旅人の像

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 さらにまっすぐ進む。前方には上り坂が見えている。

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 (16)の公園には大山街道旅人の像がある。

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 のんびり一服している旅人である。

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 説明書きがあった。

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大山詣(おおやまもうで)
 江戸時代中期、関東一円の農村には雨乞いのために、雨降り山と呼ばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から青山、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道とよばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋、世田谷通り、ボロ市通り、そして弦巻を通って、用賀、二子玉川に行っていました。
 しかし、大山詣は次第に、信仰は口実となり、帰り道東海道に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってきました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に設置したものです。
 昭和60年3月 世田谷区
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 大山詣が信仰から物見遊山になったことが記されている。

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 公園の注意事項を書いた看板にも大山街道のステッカーが貼ってあった。

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 蛇崩川の洗い場跡の石碑があった。蛇崩川とは何度か遭遇している。

69桜小前交差点:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 ★3 大山街道と世田谷通りの交差点
 ★2 世田谷通り裏の交差点
 (14)桜小前交差点
 (15)石碑

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 ★3 大山街道と世田谷通りの交差点
 ★2 世田谷通り裏の交差点
 (14)桜小前交差点
 (15)石碑
 (16)大山街道旅人の像

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 ★3の場所にある桜門。

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 まず大山街道の歩道を向こう側に渡る。

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 そして世田谷通りを渡り、★2の交差点を左折する。

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 X字状になっている(14)の桜小前交差点を斜め向こう側に直進する。

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 細い道を進むと(15)の場所に石碑があった。
 
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 石碑には「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築した。 財団法人 大場代官屋敷保存会」と書いてあった。また戻るのも大変なのでここはパスしよう。

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 ★4の交差点を斜めに横切るように直進する。

68代官屋敷&天祖神社:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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(11)世田谷駅前交差点
 ★2 世田谷中央病院交差点
 (12)代官屋敷
 (13)天祖神社

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  (11)世田谷駅前交差点
 ★2 世田谷中央病院交差点
 (12)代官屋敷
 (13)天祖神社

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 (11)から★2へ向かって進む。

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 ★2の世田谷中央病院交差点の角にはもちろん世田谷中央病院がある。

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 世田谷中央病院交差点を右折してまっすぐ進む。

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 この通りはボロ市通りで、毎年1月15,16日、12月15,16日の4日間開催され多くの人で混雑しているそうだ。

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 しばらく歩いた左側には(12)の代官屋敷がある。しかし、、、

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保存修理工事のお知らせ
 大場代官屋敷は保存修理工事のため11月30日頃まで見学できません。来場の皆様には、ご迷惑をお掛けいたしますが、ご理解くださいますようお願い申し上げます。
なお、郷土資料館は通常通り開館しております。
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 ということで見学できない。郷土資料館は開館しているがパスする。

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 中を覗くとかなり大掛かりな保存修理工事が行われている。

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 代官屋敷の反対側には天祖神社がある。

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 神社の庭では近所の子供達が元気良く遊んでいる。

67大吉寺&圓光院:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 ★1 松陰神社入口交差点
 (6)大吉寺
 (7)圓光院
 (11)世田谷駅前交差点

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 ★1 松陰神社入口交差点
 (6)大吉寺
 (11)世田谷駅前交差点

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 ★1の松陰神社入口交差点を右折し大山街道に戻る。世田谷区役所入口交差点を直進する。

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 地図の(6)の大吉寺。明治地図にも寺の記号が記されている。

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 本堂はこんな感じ。

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 ここは(11)の世田谷駅前交差点。

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 大吉寺の横には(7)の圓光院がある。明治地図には記号はない。あるいは大吉寺と思った(6)が圓光院なのかも知れない。圓光院の前にあるのは櫻小學校發祥之寺と書いた碑。寺子屋のような塾があって小学校の元になったのかな?

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 (7)の圓光院の入口。左に弘法大師、右には真言宗大悲山円光院と書いてある。

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 中では彼岸会大法要の準備がされていた。

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 入ってすぐ左に庚申塔があり、その右には弘法大師降誕1200年記念の碑があった。

66松陰神社2:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 こちらが本殿である。

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 本殿の右側には松下村塾がある。本物は萩にあるがそれを模して建てられている。

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松下村塾
 松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。
 松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月まで、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築が行われました。松陰先生が名実ともに公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5か月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施したの年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄随、高杉晋作、野村靖、山県有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。
 本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。
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松下村塾での教育
松下村塾聯(松下村塾の床の間に掲げられていた言葉)

万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。
一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

大意:多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になりえるだろうか。
自分の労苦をいとう者にどうして人々の安らかな生活を築くことができようか。決してできない。

 萩の松本村にあったということで松下村塾と名付けられれ1856年8月頃から1858年末までの2年半ほどの期間、松陰先生は塾生に教育を施しました。
教育の目的は、
 「君臣の義」(君主と臣下の間で守るべき正しい道)
 「華夷の弁」(日本と外国との違いを明確にすること)
 「奇傑非常な人」(人並み外れた優秀な人材)
を育むことでした。身分に関係なく誰でも入塾でき、先生は塾生それぞれをよく観察、記録し、そこで気付いた大切なことは手紙にして渡しました。先生が手を加えて正していく教育ではなく、自分で気づかせ、個性を生かす心の通い合う教育でした。塾で学んだ塾生は総勢90名前後と言われており、彼らの活躍あって現在の日本があるのです。
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 この奥の部屋で教育がされていたのであろう。

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 右横には塾長室があった。

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 ここにも吉田松陰像があった。

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 松陰先生50年祭および100年祭の記念碑があった。

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 帰りに松陰神社前駅の手前で東急世田谷線の車両に遭遇。かわいらしい電車である。今日は鉄道旅ではないので、先を急ぐ。

65松陰神社1:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 (5)松陰神社

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 (5)松蔭神社と思われる場所。明治15年の創建なので地図には間に合わなかったと思われる。

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 5分ほど歩いて松陰神社に着いた。

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 鳥居の手前に説明書きがあった。

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松陰神社
ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰先生)
 松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。
 明治15年(1882)11月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。
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 昔の鳥居柱の一部が保存されていた。説明書きがあった。

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松陰神社 旧鳥居柱
 松陰先生50年祭(明治41年)の際に建造された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総重量約20トン程であった。平成23年10月の新鳥居建造にあたり解体。その一部を保存した。「明治41年10月50年祭典」の刻字は社殿向かって左の柱にあったものを保存の際に写し刻字したもの。
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 このピンクの花はなんだろう。花桃かな?

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 吉田松陰像があった。

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吉田松陰先生像
(鋳造:平成25年ブロンズ)
 明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。
 松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。
※大熊氏廣(安政3年(1856)~昭和9年(1934))
 明治9年工学美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21~22年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名。
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 吉田松陰のお墓があるので寄ってみる。

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 こちらがお墓である。吉田松陰だけのお墓ではないようだ。説明_書きがあった。

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吉田松陰先生他烈士墓所
 文久3年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年11月、福原乙之進を埋葬した。
 禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓が破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、さらに綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。
 明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。
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 多くの人々に慕われていたのだなぁ。

64松陰神社前駅:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 東急世田谷線の松陰神社前駅がある。

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 明治地図でははっきりしない。

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 駅の隣の踏切である。

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 松陰神社駅と山下(豪徳寺)方面を望む。

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 三軒茶屋方面を望む。

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 駅へは通りから直接入ることができる。

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 商店街の幟。「元気でやさしい松陰神社通り商店街 段差のないやさしい道路でお買物」と書かれている。高齢社会なので「段差がない」のは重要だ。

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 このような雰囲気の中をしばし進む。

63松陰神社通り商店街:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 ★1 松陰神社入口交差点

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 ★1 松陰神社入口交差点

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 松陰神社入口交差点を右折し松陰神社に寄り道する。

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 松陰神社通り商店街に入るとすぐ右側に商店街の案内図とともに松陰神社の言われがあった。

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吉田松陰と世田谷松陰神社
 長州藩の志士吉田松陰が幕府の弾圧「安政の大獄」に連座し、江戸伝馬町獄で処刑されたのは、安政6年(1859)10月27日のことでした。松陰は死に際し、
  「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 と詠みました。自分の肉体は亡んでも、志だけはこの世に留めておくのだという決意を込め、30歳の若さで散ったのです。
 松陰の志を継いだ高杉晋作や久坂玄瑞等の門下生たちは、尊王攘夷を唱え、ついに二百数十年続いた幕府を倒し、維新の大業を成し遂げました。
 松陰の遺骸は最初、千住小塚原に罪人として埋められましたが、文久3年(1863)1月、高杉ら門下生の手で、長州藩の所有地だったここ世田谷若林に丁重に改葬され、その後明治15年(1882)、松陰神社が建立され現在にいたっています。
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 狭い通りの商店街を進む。

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 近くにある国士舘高校が平成最後の春の甲子園(第91回選抜高校野球大会)に出場した(結果は1回戦で明石商に1対7で敗れた)。

62蛇崩川緑道&北原白秋住居跡:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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(3)蛇崩川緑道

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 明治地図では蛇崩川はわかりにくい。

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平成地図の(3)蛇崩川緑道の場所にはこのような緑道が続いていた。昔は駒留橋があったのだろう。

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 世田谷通りに戻り、若林交差点から歩みを進める。上馬五丁目に歩道橋があった。

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 しばらくいくと右側に看板が。北原白秋住居跡(★3)と書かれている。

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北原白秋住居跡
 歌人・詩人・童謡作家であった北原白秋は、その生涯57年のうち、44歳から55歳までの12年間、世田谷区内に在住していた。
 此の処若林3丁目15番に昭和3年4月、旧馬込町(大田区)から移転してきた。区内最初の住所地で、「世田谷風塵抄」と題する一連の短歌を詠んでいる。

霾(つちふ)らし 嵐吹き立つ 春さきは 代々木野かけて 朱(あけ)の風空
風面(かざおもて) 朱(あけ)に吹き立つ 春真昼 ゑぐき埃(ほこり)に 食(じき)いとふなり
木檞(もっこく)の しづけき空へ ちりかけて 桜はしろし 光る花びら
風たまゆら 土しづけき 花びらの ひとつ舞ひ立ち はらら皆立つ

 彼は、昭和6年初夏、今の砧6丁目13番(旧大蔵の西山野)に、次いで昭和11年1月、今の成城1丁目32番に移転、翌12年11月、眼底出血をおこし、昭和15年4月、杉並区阿佐ヶ谷に転居、同17年11月2日逝去した。
 昭和60年2月 白秋生誕百年を記念して 世田谷区教育委員会
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61駒留八幡宮:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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(2)駒留八幡宮

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(2)駒留八幡宮
 明治地図にも神社の記号がある。

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 鳥居をくぐって参拝する。

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 上馬の駒留八幡神社はせたがや百景に選定されている。

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駒留八幡神社(若宮八幡)
 祭神は天照大神、応神天皇。北条左近太郎入道成願は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治三年(1308)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。その後世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母常盤を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。
 昭和53年3月 世田谷区教育委員会
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 ここで出てくる厳島神社は安芸の宮島のことなのかな。全国各地に厳島神社があるのでどこの厳島神社かはよくわからない。

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 こちらが本堂。

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 世田谷区の名木百選に選定されている「クロマツ」である。すっとしており佇まいがよい。

60若林交差点:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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(1)若林交差点

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(1)若林交差点

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 大山街道と環状七号線の交差点が若林交差点である。

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 激安の殿堂ドン・キホーテもあった。

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 環七通りは英語では「Kan nana dori Ave」と言うのか。わかりにくいように思う。

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 環七の大森方面を望む。

59世田谷通り:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 三軒茶屋から二子玉川までの大山街道は二通りある。すでに歩いたものは「新町・行善寺線」という比較的新しい街道だった。今日は「上町・慈眼寺線」といういわば旧道を歩いてみる。

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 三軒茶屋駅から世田谷通りを西に向かう。

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 明治地図では(3)三軒茶屋駅から赤の破線を西に向かう。三軒茶屋駅付近に民家が多いのがわかる。


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 アーケードが続いている。

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 日曜日の朝だが車が多い。

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 交差点に着いた。

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 太子堂四丁目交差点だ。地図の★1の場所だ。

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 次の交差点は保健センター入口。地図の★2の場所だ。

58三軒茶屋:大山街道3[三軒茶屋~宮崎台]

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 中央林間駅から急行押上行きに乗る。

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 34分で三軒茶屋駅に着いた。世田谷通り出口へ向かう。

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 出口の脇には、先日も見た大きな道標が鎮座している。

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 先日の「エコー仲見世」や、この「すずらん通」など私にとって魅惑的な路地が多い。

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 キャロットタワーを右手に見ながら世田谷通りを歩き始める。

中央林間0838→0912三軒茶屋 東急田園都市線 急行押上行き

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