
(26)老人福祉センター横浜市ユートピア青葉
(27)再勝橋
(28)つつじが丘第二公園
(29)青葉台駅

(26)老人福祉センター横浜市ユートピア青葉
(27)再勝橋

(24)和菓子店からすぐのもえぎ野中学校東側交差点を右折する。(平成地図では「消防出張所」交差点となっているが名前が変わったようだ。)

左手にジョナサンを見ながら登っていく。

このあたりが坂のピーク。

これから下り坂となる。

左手にはデンエン藤が丘斎場がある。家族葬などの普及により小さな斎場が必要なのであろう。

その先の右側に「老人福祉センター 横浜市ユートピア青葉 横浜市もえぎ野地域ケアプラザ」があった。トイレを借りようと思い中を覗いたが、とても入りづらい雰囲気なので止めた。

(19)テニスコート
(20)医薬神社
(21)藤が丘ゴルフ場
(22)坂のピーク
(23)横浜市藤が丘地区センター
(24)和菓子店

(20)医薬神社
(21)藤が丘ゴルフ場

一里榎を離れて次を左折する。

そして左手にテニスコートを見ながら次を左折。旧街道に沿った道が残っていないので、右左折しながら旧街道に近い道を歩むことになる。

まっすぐの登り坂を登る。

ここが医薬神社前交差点である。

その角には柿の木台第三公園がある。地元の子供たちが3人で仲良く遊んでいた。

そして公園の隣に(20)医薬神社がある。

由緒がかかれた案内板がある。
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「醫藥神社略誌
一、鎮座地 横浜市青葉区柿の木台28-2
二、御祭神 大国主神 少彦名神
三、由緒
戦国時代末期の天正年間(1573~1592)、真言宗関東三ケ寺の一つとして創建された醫王山藥師院東光寺の境内に山号の「醫」、寺号の「藥」を取り、「醫藥神社」として祀られたのが始まりという。
江戸時代末期、水戸藩主徳川斉昭の庶子として生まれた東光寺住持諦恵が明治初年に新政府が神仏分離令を発布したとき水戸神道を奉じて僧侶から神職となり、近隣の上谷本・下谷本・上市ケ尾・成合の四ヶ村の檀家は神社神道に改宗し、東光寺を廃祀して醫藥神社を独立創祀した。
諦恵はこのとき谷本の村名を姓として名乗り、こんこんと湧き出る境内の井戸に因み泉と称した。
当初の社殿は、一尺五寸四方の小祠で、昭和の初期に改造営したが、戦後に至って朽ち果てたため新社殿を再建し、昭和42年3月21日遷座奉祝祭を斉行した。
その後土地区画整理事業により町並みが一変したため、社殿の向きを南向きに変えた。
御祭神大国主神は、親子で手を携えて国を回ったといわれる故事により縁結びの神様として広く信仰されている。
また、大国主神が稲羽の素兎を助けた神話に因み、病気平癒・厄除・安産成就・無病息災・延命長寿のご利益のある神社として遍く崇敬されている。
四、祭事(略)
五、交通
東急田園都市線藤が丘駅下車徒歩10分 醫藥神社 宮司 山本孝司」
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明治地図ではだいたいの場所を示してあるが、少し違うのかもしれない。

拝殿がある。

拝殿の裏には庚申塔のようなものがあり「左 大山道」と彫られていた。

またその隣には地蔵堂がありやはり「左 大山道」と彫られていた。

(34)高札場
(35)荏田城址
(36)小黒谷
(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂

(34)高札場
(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂

国道246号線を横切り、荏田交差点を直進する。

その先のセブンイレブンのある交差点に(34)高札場があった。ここを左折する。

そして直進する。

布引橋を渡る。

(36)小黒谷を進む。

右側には(35)荏田城址が見えている。

このあたりは急傾斜地になっており崩壊危険地帯らしい。

しばらくすると国道246号線と合流する。

合流地点に大山街道ステッカーを発見する。

その近くに横山医院の看板があった。
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「社会福祉法人 福田会の委託による 里親斡旋の地 横山医院」
イ、明治維新により四民平等・秩録処分(武士の棒給の支拂停止)
ロ、明治29年(1896)三陸の大地震・大津波
ハ、明治39年(1906)東北地方の大飢饉
イ、ロ、ハ等により多くの孤児・捨子・身売りなど貧困無告の子供達が生じた。明治9年佛教会は宗派をこえて(臨済・天台・真言・日蓮・浄土・時宗)棄児救済のため福田会を結成する。後、育児院を1879年(明治12年)設立する。
横山医院初代院長横山三省(1835~1916)は、明治37年より福田会の委託を受け、乳呑み児・幼児を地元の母乳の溢乳する産後の主婦に_養親として、これらの子供達の養育を斡旋した。
[養親の住居]は
都筑郡山内村(元石川・荏田)、中川村(中川・大棚・茅ヶ崎・牛久保)、中里村(市ケ尾・鉄)、都田村(池辺・東方)
橘樹郡宮前村(宮前・馬絹)、柿生村(柿生・王禅寺)であった。
里親には毎月里扶持(養育費)と盆・暮には皇后陛下より着物・反物・お菓子が下賜された。
里子の出身地は北海道から沖縄まで日本全国と朝鮮であり総数595名に及ぶ子供達は5歳になると福田会にかえり小学校に入学、卒業後は職を身につけたり奉公に出たりしている。
里子の中には養親に気に入られ養家に残り成人し一家をささえた者10数人に及ぶ(里流れと言う)。
福田会は、現在東京渋谷区広尾で社会福祉法人として児童養護施設・福祉型障害児入所施設・老人ホーム等を運営している。
この事業は昭和20年(1945)敗戦のため里扶持が途絶えるまで41年間続いた。この斡旋を担ったのは横山医院初代院長 横山三省、三代院長 横山謙次郎、四代院長 横山巌である。
平成27年10月吉日 横山博 記す。」
写真は「明治41年皇后陛下より御下賜品を受け取るために横山医院に集まった里親・里子達。」
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横山医院の方々は社会福祉法人のひな型として里親などの斡旋をしていたのですね。素晴らしいです。

(33)常夜灯
(34)高札場

(33)常夜灯
(34)高札場
(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂

さらに歩みを進める。

ここを左折すれば(31)真福寺へ向かうが、真福寺には寄り道しない。

左側に(33)常夜灯が見えてきた。民家の庭の中にある。

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「横浜市地域史跡 荏田宿常夜灯 平成元年12月25日登録
県北を通る公道矢倉沢往還(大山街道)は、東海道の裏道にあたり、大山参詣の信仰の道でもありました。荏田は長津田とともに、江戸初期から宿駅に指定されていました。当時の宿の繁栄を語るものとして常夜燈が残されています。
総高 230cm。中台に「秋葉山」、竿に「常夜燈」と刻まれ、文久元年(1861年)に建立されました。秋葉講の案内宿に建てられたもので、宿中を初めとして、神奈川宿・市ケ尾村などからも寄付をあおぎました。
平成2年3月 横浜市教育委員会」
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(33)常夜灯
(34)高札場

(34)高札場

JAの近くには大山街道荏田宿と書かれた案内図があった。


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「大山街道 荏田宿
大山街道(矢倉沢往還)は、現在の東京赤坂を起点として青山から渋谷、三軒茶屋、多摩川を渡り、二子の渡しで、溝口から荏田、長津田から座間、厚木を経て伊勢原経由のち、矢倉沢関所を経て大山阿夫利神社の参拝に行かれていました。
江戸中期より、江戸庶民の大山詣で(別名雨乞い)のため利用し、盛んに往来されていたそうです。また、相模地方の産物を江戸に運ぶ重要な街道にもなっていたとの事です。
荏_田宿は、江戸を発った旅人が一晩目の宿として賑わった宿場町でした。現在では建物様式も変わりましたが、今でもこの旧宿場に住まい、屋号を残している家も多々あります。時代により屋号や、職業も多少変わっていった様で、兼業農家の家も多くありました。
茶色の屋根色は、今も家人が住まい又は、営業しています。」
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(29)一里榎跡
(30)庚申堂
(33)常夜灯
(34)高札場

(30)庚申堂
(34)高札場

(28)鍛治橋を渡ってすぐに左折する。


この右手の建物がある場所に(29)一里榎があったらしい。

(30)庚申堂があった。
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「いわれ(由来)
この庚申塔は、その昔寛政5年(西暦1793年)徳川時代中期に荏田村下宿の婦人達によって建てられたもので当時盛んだった庶民信仰の一つに疫病、厄払いの為60日ごとの庚申の日に講中の人(女)が集まって眠らずに祈願し、一夜を過ごす風習があったそうです。
ここは昔栄えた大山街道の道筋で江戸を発った旅人の1日目の宿場の入口でもあり道標としても親しまれてきました。又、交通安全、幼童安穏の神としても知られ遠方から訪れる人もあります。本年下宿講中の仲間が集まり昔を偲び心のよすがにもと古びた祠を改築いたしました。
平成6年11月 下宿庚申講」
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そして広い道にでる。

右側にはJAがあった。

(25)不動滝
(28)鍛治橋
(29)一里榎跡
(30)庚申堂
(33)常夜灯
(34)高札場

(25)不動滝
(30)庚申堂
(34)高札場

住宅地をまっすぐに進む。

左側には戸建てが並んでいるが、崖を利用しており道路側に駐車場があり、その上に民家が建っている。駐車場にはこのように調整池があり洪水や氾濫を予防しているという。

ここにも大山街道ステッカーがあった。

しばらく進むと左手に(25)不動滝が見えてきた。住宅地の中にあるとは思えないシチュエーションである。

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霊泉の滝
滝不動尊は、まことに霊験あらたかです。
此の地域に雨の降らない時雨乞いすると必ず降りました。昔から喘息・百日咳・風邪ひきなどお水を戴きながらお願いすると必ず治癒しました。滝壺等汚さないでください。
老馬鍛冶山不動尊 堂主
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ご参拝ご苦労さまです。霊泉のお水利用なされる皆様、近代食生活の向上に伴い、体質の弱体化もありますので、お持ち帰りになって一回わかしてからご利用ください。
諸道具等の洗浄・動植物放流禁止致します。
老馬鍛冶山不動尊管理者
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なかなか親切な看板である。

ここが滝不動尊(不動滝)である。

(13)おなかま保育園
(14)川崎考古学研究所
(15)さくら公園
(17)横浜・川崎市境
(18)四辻
(19)うとう坂
(20)地流れ坂
(21)皆川園

(17)横浜・川崎市境
(18)四辻
(19)うとう坂
(20)地流れ坂
(24)横浜市営地下鉄ブルーライン高架橋
(25)不動滝
(30)庚申堂
(34)高札場

ここが(13)おなかま保育園である。

右折してしばらく直進する。

右側には(14)川崎考古学研究所という建物がある。

右手に(15)さくら公園が見えてきたらそこを左折する。

そして次の交差点を右折する。

そして次の路地を左折する。宅地造成の影響でまっすぐだった街道が分断されたため、このように右・左折を繰り返して進む。

ここからは右側の細い道に進む。(17)あたりであり、ここが横浜市と川崎市の市境になっている。


両側に手入れの行き届いた木々が数多くみられている。

ここが皆川園である。

この(18)_四辻を左にカーブしてあゆみが丘の東端を進む。

住宅地の中を進んでいく。

こちらが皆川園の正面玄関らしい。

看板の横には大山街道のステッカーが貼ってあった。

(21)★7:小台公園
(22)三角点
★9:鷺沼交番前交差点
(24)さぎ沼とうきゅう

(21)★7:小台公園
(22)三角点

★7の小台公園の場所に着いた。街道歩きはここを右折して、すぐに左折するのだが、ちょっと寄り道していこう。

ここが小台公園である。桜の名所とのことだが、この時期はあまり見どころはなさそうなので、先を急ぐことにする。

ここを左折して登っていく。間違えやすい場所かもしれない。

住宅街をさらに進んでいく。

★8の場所に着いた。手前に(22)の三角点があるはずだが見当たらない。この辺りを三回ほどめぐってみたが見当たらない。明治地図にも三角点のマークがあるがついに探すことはできなかった。
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