
(29)大欅(けやき)

矢印の場所が大欅の場所だろう。

国分寺跡から元の場所に戻る。

まっすぐ進むと大欅があった。

推定樹齢は560年以上で、漁師が舟を繋ぐ杭を打ちこんだところその杭から芽がでたという伝説があるそうだ。国分宿の西には海(川)が広がっていたのだ。
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神奈川県指定天然記念物
海老名の大ケヤキ
昭和29年3月29日指定
このケヤキは、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり、以来、人々が保護し育ててきたものと伝えられている。根回り15.3メートル、目通り7.5メートル、樹高20メートルに達する大ケヤキである。
ケヤキはニレ科の温帯性落葉高木で、県下でも沖積地や台地斜面などに自生しているため昔から親しまれてきた。屋敷内には植栽されることも多く、しばしばケヤキの見事な屋敷林も見かける。
もともとこのあたりでは、ケヤキ林が自然植生として栄えていた。昔の人が生活の知恵から打ちつけた杭も、ちょうどこの土地に合ったものを使ったため、現在見られるほどの見事なケヤキに生長したものと推定される。郷土を代表する木として、永く保存する必要があり、県指定天然記念物に指定したものである。
神奈川県教育委員会
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歩道橋を渡らずにまっすぐ進む。

旧国道246号線と合流し、ここを右へ。

国分坂下交差点を直進。

中央公園入口を右折する。

(26)温故館→赤丸の場所に移転

赤丸の場所が移転した温故館の場所

温故館は国分寺跡の近くに移転していた。気がついてよかった。

中に入って学芸員(?)の方の説明を聞いた。当然ながらよく知っている。国分寺だけでなく、この周辺でいろいろな遺構が発見されているようである。来館記念のスタンプはいろいろなものがそろっている。

温故館のパンフレットをいただいた。元は海老名村の村役場で、昭和57(1982)年から海老名市郷土資料館となり、平成23(2011)年に移転再オープンとなったようだ。
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温故館の歴史
温故館は、相模国分寺跡が国指定史跡となった大正10(1921)年に国分寺跡保存整備事業の一環として、考古資料等を保管・展示するため、尋常高等海老名小学校(現在の海老名市立海老名小学校)の校庭に設置された「遺物陳列館」がその始まりです。
温故館は、関東大震災により倒壊しましたが、まもなく海老名村役場敷地に再建され、その後国分寺中門跡付近など数度の移転を経て、旧海老名村役場の保存を機に、同建物を温故館とすることになりました。昭和57(1982)年に開館した海老名市温故館ですが、老朽化のため耐震補強工事が必要となり、現在の場所に移築し、平成23(2011)年に再オープンしました。(パンフレットより)
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相模国分寺跡の説明文があった。

法隆寺に似た建物配置で、東西240メートル、南北300メートル以上と有数の規模を誇っていたようだ。
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奈良時代、聖武天皇は仏教の力で国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で周囲を囲んでいます。その外側は素堀りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と諸国の国分寺跡の中でも有数の規模を誇ります
七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。瓦は乗越瓦窯(横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(東京都町田市)などで焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川跡は、これらの資材を運ぶために人工的に開削された運河とみられています。
通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(平塚市)、国分寺は国府から約12キロも離れた高座郡(海老名市)におかれました。これは大住郡と高座郡の郡司が壬生氏という同じ氏族であったからではないかとされています。ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、二寺が並び立つ様子は壮観だったことでしょう。
相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれています。
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「National Historic Site Sagami Kokubunji Temple Remains」。英語表記がなんだかオシャレだね。

ここは寺の僧が生活していた僧房跡である。東西81メートル以上と長い建物で、9区画に仕切られていた。

僧房の遺構も埋め戻して保存してあるそうだ。
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ここに、国分寺の僧が集団生活をしていた施設である僧房がありました。僧房は塔や金堂、講堂とともに奈良時代の寺院を構成するために必要な建物でした。1966年と1996年に行われた発掘調査により、東西81m以上の長大な建物で、東西9m、南北6.57mを1居住単位とし、9区画以上に仕切られていたことなどが確認されました。
柱穴を調べたところ、柱の下部を地中に埋める掘立柱建物から、柱を礎石の上に建てる礎石建物へ建て替えられたことも判明しました。柱は直径約30cmと推定され、柱が沈み込まないよう根元に石や瓦を置く礎板も見つかりました。さらに、掘りなおされた痕跡が確認されたもの、柱穴の中に焼けた瓦や土器が廃棄されたもの、焼けた土で埋め戻されたものが確認されました。
これらのことから、火災などによって2回の建て替えがあったものと考えられます。
見つかった僧房の遺構は、長く将来に伝えていくために埋め戻し保存し、その上に僧房の規模や構造がわかるよう、壁や柱の位置を表示しています。
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ここは七重塔の跡である。

七重塔です! 三重でも五重でもありません。高さ65メートル、基壇一辺は20メートルと壮大です。8世紀によくこんな建造物をつくったものです。
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ここは741(天平13)年の「国分寺建立詔」をうけて建てられた七重塔の跡です。国分寺の塔には、国家の平安を祈る金光明最勝王経が安置されていました。
1966(昭和41)年と1993(平成4)年に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、一辺の長さが20.6m、高さは1.3mの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、塔の初重の広さは、10.8m四方で、塔の高さは約65mあったと推定されています。
塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺物が出土しています。
また、基壇周辺で発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました。
創建時の基壇は、現在復原されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積み)につくり替えられています。
石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定され、両方とも凝灰岩質の石です。
10個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれる礎石3個と新たな石4個を使って復原・補充しました。
基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、創建時の基壇よりも35㎝低く復原しました。
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立派な七重塔の想定復元図である。

(27)相模国分寺跡

赤丸のあたりだろう。

細い道を進むと右側が広大な広場になっている。ここが国分寺跡である。

史跡相模国分寺跡という石碑がたっている。大正14年に建立されている。


中門と回廊跡である。遺構は地下に埋め戻してあるそうだ。
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ここには、塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とその中に入るための正門である中門がありました。
1966年と1993年に行われた発掘調査の結果、中門は東西21m×南北11m程の土台(基壇)上に建つ瓦葺きの建物だったと推定されています。
廊跡からは、礎石上に柱の痕跡があるものが7基みつかり、周辺から瓦が多く出土しました。回廊は一般的に東西南北に廻らされますが、相模国分寺では東面が築地塀であったことが確認されており、西面についての詳細は不明です。
現在、遺構は地下に埋め戻して保存し、その上に中門と回廊の範囲を表示しています。
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民家の向こうにはViNA WALKの看板が見える。海老名駅にもかなり近い場所なのである。

(25)道標

明治地図では赤矢印のあたりであろう。このあたり(国分宿)の街道沿いにも民家が多い。南北の道は八王子道らしく、大山街道と交差し、とても賑わっていたらしい。

左へ行くと国分寺台へ行くが、ここを直進する。

右側に道標などが集まっている。

「東 江戸・つる間 南 藤沢・かま倉」

「西 大山・あつ木 北 八王子・ほしのやと」。ほしのやととは座間の「ほしのや観音」のこと。

さらに進む。

右側に案内板がある。

「史跡相模国分寺跡歴史公園案内板」で相模国分寺跡の説明がある。現在地のすぐ近くの赤い建物は(26)温故館だが、空き地になっていて何もない(一つ前の写真参照)。

仕方がないのでこの細い路地を通って相模国分寺跡に行ってみる。

(23)伊勢山自然公園、(24)逆川碑

赤丸で伊勢山自然公園、赤矢印は逆川碑の場所。

伊勢山自然公園脇の道にでた。

ちょっと公園に寄ってみよう。

階段と坂道を登っていく。本当に「自然」公園でありところどころにベンチが置いてある程度だ。トイレもない。

公園から戻ると、そこは伊勢山公園前交差点。

交差点の右側に史跡逆川という石碑があった。

逆川とは逆の流れ方をしていた灌漑用と運送用に掘られた運河のことだ。日本最古の運河らしい。
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逆川の由来
逆川(さかさがわ)は大化の改新が行われたころ条里制による海老名耕地のかんがい用と運送用に掘られた川といわれています。
その全長は約2.5キロメートル、ここから凡そ1キロ上流で目久尻川を堰き止めて分水し、この地点で相模横山をよこぎり西北方に流れをとり、今泉境で耕地に注ぎ出ました。このような逆の流れ方をしていたので「逆川」の名が生まれたのでしょう。
なお舟着場と呼ばれたところから下流は日本最古の運河として平安中期まで利用されていたようでその遺構は今なお地下に眠っています。
後世、流れの向きを変えて「新堀」といい昭和15年ごろまで国分・大谷・今里・杉久保・上河内・中河内・本郷・門沢橋・倉見・宮山などの田をうるおしていました。
現在この地点より先は埋め立てられ舟着場付近のみわずかにむかしの面影を残しています。
昭和57年3月27日 海老名市教育委員会
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先ほどの目久尻橋と石橋供養塔で出てきた、目久尻橋にかけた石橋の石がこれである。
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この石は、その昔大山街道の交通の便をはかるため、目久尻川にかけた石橋の石で、大正12年の関東大地震のとき川に落ちたものを昭和52年12月河川改修のとき引き上げたものです。これに宝暦7年(1757)に国分の重田七三郎翁が企てた石橋勧進帳の木版が残っておりこの架橋のありし日を物語っています。
昭和57年3月27日
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(20)道祖神、(21)目久尻川、(22)石橋供養塔

(20)道祖神を赤丸で、(22)石橋供養塔を赤三角で記した。

児童公園から坂をくだる。

正面には大山がくっきりと、と言いたいところだが山頂には雲がかかりはじめた。

さらに道を下り、つきあたりを右に曲がると右手に道祖神がある。

旧国道246号線に出て左に進む。

すぐある川は目久尻川。

それほど大きな川とは思えないが一級河川ということだ。

目久尻橋を渡るとすぐに国分コミセン前交差点。

そこを右折して目久尻川に沿って歩くと右側のフェンス越しに石橋供養塔がある。目久尻橋を石橋に架け替える募金活動を行った重田七三郎の功績をたたえてある。

ここを左折する。

細い道を進む。

(12)渡辺崋山案内板

おそらく赤矢印の場所であろう。

このわかれ道の左手前に道標や案内板などがある。

ガイドブックには向かいのマンション内の公園に道標があるとなっているが、ここに道標がある。
「向二 右 小園・早川・綾瀬村小園」と書いてある。

こちらは「向二 右 国分・厚木 左 大塚・原町田」となっている。

道標の横に渡辺崋山案内板がある。
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崋山ゆかりの道
ここから右手に向かう道は、古東海道との言い伝えがあります。
天保2年(1831)渡辺崋山は、絵の弟子高木梧庵を伴って江戸から大山街道を下り、この古道から小園村に入り少年期に世話になった「あこがれのお銀さま」を訪ねたのでした。
崋山は本名を登といい、政治家として画家として、また幕末の先覚者として有名な人です。
昭和63年3月 綾瀬市教育委員会
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「ここから右手に向かう道」とは、3枚前の写真の左手に向かう道のことである。

向かいのマンション内の公園にはこんな石碑があった。

さらに歩みを進める。

旧国道246号線を西に向かう。赤丸印あたりに道標があった。

明治地図では街道沿いに民家は少ない。

松屋を出てから国道246号線を右へ。

すぐに鶴間駅交差点の信号になる。

右側には船のオブジェが。居酒屋(とれたて酒場 山海船)の看板だった。

しばらく行くと西鶴間交差点。

その先の右側に比較的新しい道標があった。
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矢倉沢往還
この石は、全国の「大和」という市町村で構成している「まほろば連邦」の加盟国である茨城県大和村より産出されている御影石(花崗岩)を使用しています。
この道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。東京都港区青山を起点とし南足柄市関本、矢倉沢、足柄峠へと至る街道です。また、大山街道とも呼ばれ、江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道として栄えました。
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前回の鶴間駅到着する手前にも大山街道説明板があり、「まほろば連邦」加盟の自治体の石を使っていた。すごいな! まほろば連邦!

次は西鶴間小学校入口交差点である。
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