
(47)厚木神社

厚木社と書いてあるのかな。

東町郵便局前交差点に戻ってきた。今度はここを直進する。

ここが東町郵便局。

しばらく歩くと左側に厚木神社があった。

拝殿がある。

二つの柱が並んでいる。

関東大震災の恐ろしさを後世に伝えるためということで、先人は偉い!
――――――――――
郷土の歴史
右の石柱
文政11年戌子夏6月に建立され大正12年9月の関東大震災にて崩壊した鳥居の柱に震災の恐ろしさを後世に伝えるための碑とした。 文政11年(西暦1829年)
左の石柱
明治6年7月30日 厚木神社が郷社に列格奉祝記念碑
――――――――――

厚木の渡しの厚木側は昔は「天王町」といったらしいが、「お天王様」と繋がるのかな?
――――――――――
あつぎお天王様の地
平安時代より疾病除けの神として牛頭天王が祀られ那須与一も眼病祈願をし、厚木のお天王様として親しまれた。
夏祭りはお盆とも重なり近郷近在より、田植え後の老若男女が繰りだし露店は見世物小屋も掛かり、人の波で沸き、賑やかさを呈した。
現在は、厚木神社と称し尊崇されている。
――――――――――

(44)渡辺崋山来遊記念碑、(45)厚木の渡し

明治地図では赤丸あたりだろう。

厚木の渡しと渡辺崋山来遊記念碑の全景である。

案内板があった。
――――――――――
厚木市指定史跡 厚木村渡船場跡
昭和36年10月21日指定
この地は、矢倉沢往還や藤沢道、八王子道が相模川を渡る渡船場で、常時5艘の舟が備えられ、旅人に利用されていました。
江戸時代に刊行された「新編相模国風土記稿」の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。
この渡船場の厚木側の権利は、厚木村と溝呂木家が持っていました。溝呂木家の権利は、徳川家康から与えられたものと伝えられています。
天保2年(1831)9月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡辺崋山は「厚木六勝」図を残していますが、その一つ「仮屋喚渡」は、この場所を描いたものです。
明治41年(1908)、相模橋の開通によって、この渡船場は廃止され、その役目を終えました。
平成3年3月
平成21年3月再調 厚木市教育委員会
――――――――――

すごろく手ぬぐいにも厚木の渡しが描かれている。

これが、渡辺崋山来遊記念碑である。

こちらは厚木の渡しの石碑。
――――――――――
相模川をわたるために設けられた渡船場で、海老名市河原口とをむすび、5隻の船で往来していた。
――――――――――

相模川がこのように見える。渡し舟が盛んだったころはどんな風景が広がっていたのだろう。

振り返ると「Nagashima」という床屋が。創業を見てビックリ! なんと1701(元禄14)年! 18世紀最初の年である。街道沿い、おそるべし。

(46)東町商店会

おそらく赤丸のあたり。

相模大橋を渡り切った。

この東町郵便局前交差点を右折する。後ほどここにはまた戻ってくる。

東町商店会に入った。左手には和菓子屋の菊屋政房。なんと創業天明元(1781)年である。街道沿いの和菓子屋、おそるべし。

シャッターにいろいろな絵が描かれている。これは「だんご」と「御休所」だ。

こちらはけやき薬局で、「薬種」「薬局方」など。

ここはあゆみ橋西入口交差点。右折すればあゆみ橋だが、直進する。

島崎金物店。シャッターの絵がみにくい。

こちらは「うなぎ」。昔は天然物かなぁ。

石村集文堂・栄光堂。「本」「草双紙」など。

履物 松元。「本履物」とある。

「紳士用品 林屋」となっている。

「庭球屋」「張り屋」。

タオルの伊予忠。今治タオルかな?

「せともの」

交差点を直進する。

その先にも「おだんご」「まんじゅう」とある。なかなか楽しい。

海老名氏霊堂。青い実線は圏央道。

おそらく赤丸のあたりだろう。

庚申塔と道祖神のあった場所に戻り、ここを右折する。

右側に建売の住宅が数軒ならんでおり、大山が正面に見えている。

右手には野菜の無人販売所がある。

ここが有鹿幼稚園。

やっと海老名氏墳墓入口の石碑があった。

右折してここを進む。

ここが霊堂である。

説明文があった。
ーーーーーーーーーー
海老名氏霊堂
海老名氏は、村上源氏の流れをくむ武蔵横山党の一派で、平安時代の12世紀頃には海老名の地に進出して来ていたと考えられています。
中でも海老名源八季貞は保元の乱で奮戦し、曽我物語などにもその名が出てくるなど有名な武士です。
海老名氏の菩提寺は、現在は廃寺となっている宝樹寺と伝えられ、その跡地が霊堂のあるこの周辺一帯と考えられています。堂内には、海老名氏縁のものと伝わっている宝篋印塔や五輪塔が安置されています。
霊堂周囲にある河原口坊中遺跡からは、12~14世紀の建物跡やかわらけなどの遺物が多く出土し、宝樹寺の存在と合わせてこの辺り一帯が海老名氏の本拠地であったと考えられています。
海老名市教育員会
ーーーーーーーーーー

霊堂内の様子。

青い実線は圏央道。


右折すると正面に大山がみえる。

そしてここは直進。

左手には歴史資料収蔵館がある。

そして案内板があった。
ーーーーーーーーーー
江戸・国分 大山道 厚木・大山
河原口村を通る大山道は、曲がり角が多いために「七曲」と言われていました。この先で南北に通る「八王子道」と合流します。二本の道が出会う付近には、かつて蕎麦屋がありました。この先、「厚木の渡し」で相模川を越し、厚木宿、大山へと続いていきます。
江戸時代に「游相日記」を著わした三州田原藩士「渡辺崋山」は天保2(1831)年にこの大山道をたどり、厚木宿の旅籠「万年屋」に宿泊し、渡しの風景画(厚木六勝図の一つ)や、まちの様子をたくさん描き残しています。
また、徳川家康は、中原(平塚市)への鷹狩の帰路、「厚木の渡し」を渡り、隣村の中新田村に居を構えていた、かつての老臣「高水主水助清秀」を訪ね時服や雁等を下賜したと伝えられています。
ーーーーーーーーーー

ここを左折。

児童館と書いてあるが、おひさまクラブとなっていた。

その先には庚申塔があった。
│
ホーム│
最近のコメント