
[題名]そんなに、変わった?
[著者]酒井順子
[発行]講談社
[定価]626円
[発行日]2015/11/13
“負け犬”ブームから早や十年。晩婚や晩産が当たり前の今、もはや贅沢となった看取られ死、企業化するEXILE、旧外観そのままの新歌舞伎座etc. キョンキョンの役柄が、独身中年から母親に変わるほどに、はたして自分は変わったのか? あおられる激変ムードに棹さして書き継いだ「週刊現代」人気連載第8弾。
「週刊現代」に、2012年5月5日〜2013年4月20日まで連載された文庫第8弾! いろいろな視点で物事をぶった斬る、酒井節はまだまだ健在です(笑)。でも、少しはお歳を召されたせい(といっても私よりもひと回りくらい年下ですが)か、穏やかになったのかもしれません。それはそれで、また魅力的です。


地図の(8)の八幡山公園です。

こちらが旧横浜ゴム平塚製造所記念館の洋館の裏手です。洋館といっても、栗や芋などではありません(笑)

これが洋館の横顔。

こちらが洋館の正面像です。綺麗な建物ですね。館内に入れるでしょうか?


地図の(9)から(12)の方向へ進みます。

郵便局前交差点から平塚郵便局をみたところです。

地図の(12)の場所です。本来の大山道矢崎道はここから左へ折れていたようですが、現在ではその痕跡がありません。

ここはイチョウ並木通りという名前です。

地図(13)の交差点です。

横断歩道を渡って少し戻ると、海軍火薬廠の跡の碑があります。

「ここを正面に四十余万坪の地は海軍火薬廠の跡である。同廠は明治三十八年日本政府と英国アームストロング、ノーベル、チルウォースの三会社との契約により設立された日本爆発物製造株式会社を大正八年海軍省が買収したものであって、爾来昭和二十年まで日本海軍の火薬技術の中心として数多い功績を残すと共に平塚市の発展と文化に多大な貢献をしたところである。ここにその事績を偲びこの碑を建てる。」
昭和四十九年秋日 海軍火薬廠跡の碑建立の会


[題名]三日間の幸福
[著者]三秋 縋
[発行]メディアワークス
[定価]615円
[発行日]2013/12/25
どうやら俺の人生には、今後何一つ良いことがないらしい。寿命の“査定価格”が一年につき一万円ぽっちだったのは、そのせいだ。未来を悲観して寿命の大半を売り払った俺は、僅かな余生で幸せを掴もうと躍起になるが、何をやっても裏目に出る。空回りし続ける俺を醒めた目で見つめる、「監視員」のミヤギ。彼女の為に生きることこそが一番の幸せなのだと気付く頃には、俺の寿命は二か月を切っていた。ウェブで大人気のエピソードがついに文庫化。
映画やドラマなど実写するのは難しく、書籍ならではのストーリー。寿命を売ってしまっても後悔もせず、落ち着いている主人公。幼なじみとの幸せは手に入れることができるのか。最後はどんでん返しのラブストーリー。


地図の(15)→(16)→(19)と進みます。

地図の(15)(16)の場所です。きれいな旧道分岐角(勝手に命名)になっています。

駐車場の一角に道標がありました。文字は読み取れませんでした。

自然なカーブで細い道が繋がっています。

幹線道路に突き当たりました。目指す道は正面に見えていますが、横断歩道がないので(20)の追分交差点まで戻ります。

その前に地図の(17)に寄ってみます。白鷺塚と書いてあります。

北原白秋の「白鷺の白鷺の飛べば夕日の高麗寺 月になるやら風ぢややら」という平塚音頭の一節の歌碑があります。だから白鷺塚なのですね。

追分交差点の手前のこのあたりに、昔は横丁ラーメンという隠れ家的なラーメン屋さんがありました。懐かしいなぁ。

追分交差点は地下道がありますので、それを利用します。


慈眼寺から(26)(27)方面へ行きましょう。


地図の(26)の中原宿高札場跡です。左へ行くと大手道(中原御殿)、右へ行くと中原街道(御酢街道)と道標がありました。


説明書きがありました。
「中原宿の高札場は、徳川家康の築いた中原御殿に向かう大手道と中原街道の交わる位置に設けられていました。高札場とは幕府などから出された禁令を木の札に書き掲示した場所のことです。「中原御宮記」(長谷川雪堤画)を見ると土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられる部分には屋根がついていました。 平成15年(2003)三月 平塚市」

バス停名はその名もズバリ「中原御殿」です。

もう少し進んだ右側の(27)の場所に大松寺がありました。

こちらが本堂です。

大松寺の入口には六地蔵がありました。


地図の赤丸印の谷川橋跡です。

路地は暗渠になっている上に、車が入れないようになっています。暗渠だと荷重に堪えられないためにこのように車が入れない暗渠は多いです。

谷川橋跡です。

説明がありました。
「谷川と谷川橋の跡 現在のこの道は、かつて谷川(やがわ)といった排水路だった。谷川は谷川堀ともいい、平塚の沖積地を東西に列する平塚砂丘のうち、第二砂丘列(日枝神社境内・伊勢山・大塚山等の標高12米から17米の丘)の南側の低列地にある字谷川の舟窪の凹地の池から発源して、砂丘低列の畑地の排水を集め西流し、先行流が渋田川に合した。現在は度々の改修によりその全容を失い、ついに道路敷となり消滅した。この谷川は、明治八年の中原上宿村誌によると、幅平均二間(約三・六米)、長さ千百十五間(約二千七米)、深さ最も深き処一丈(約三米)、浅き処四尺(約一・二米)とある。またこの谷川には中原往来の石造の谷川橋が架けられていた。村誌には文政八年(一八二五)に再設とあるから江戸時代からあったと思われる。谷川が昔単なる排水路でないことは、諸文献などから近世初頭の関東鷹野御殿の一つである中原御殿と中原代官陣屋に、深い係わりあいがあることが散見される。それは谷川にかつて水門が設けられ、上流の舟窪の池の余水を畑地の排水を貯水して、中原御殿の空濠引水と代官陣屋・屋敷堀用水を供給したが、後年中原御殿引き払い、そして中原代官陣屋廃止により谷川よりの堀水は必要はなくなり、水門は棄却され谷川は再び低列畑地の排水路と化して現在に到り昔日の面影を失ったのである。 平成十三年三月吉祥日 中原地区町内会(自治会)連合会記」


地図の(28)を右折して一里塚跡へ向かいます。

中原上宿バス停です。

中原上宿交差点を右折します。

しばらく行くと右側に中原街道一里塚跡がありました。

側面には「中原街道は別名「御酢街道」とも呼ばれ、成瀬酢を江戸まで運ぶこの場所の両側に一里塚はありました。」と書かれています。

向かい側の家の門のところに写真のような表札がありました。「中郡大野村中原上宿391番地」と書いてあります。

明治43年12月現在の市町村(黄色:市、緑:町、青:村)

明治44年2月現在の市町村(黄色:市、緑:町、青:村)
調べてみると、明治44年2月11日に大野村(地図の青塗りの自治体)から大野町(地図の緑塗りの自治体)になっていますので、明治44年以前の表札だったことがわかります。(本当にそんなに古いのかな?)


地図の再掲です。

本殿向かって左側には天満宮がありました。

そしてその奥には道標がありました。「庚申供養塔 大山道」と読めます。

道標の向かって左横には「左ステーション道」と書かれています。

道標の向かって右横には「右 ひらつか 大いそ」でしょうか? ちょっと薄いので読みづらいです。

庚申供養塔の説明です。「この庚申供養塔は、平塚市中原一丁目十七番(旧平塚市中原下宿169番地)の一角にあったものですが、昭和二十六年から始まった旧大野町土地改良区事業の一環として大山道(通称、豊田道)の一部(平塚市江南高校東側道路と平塚〜伊勢原旧県道の現在のT字路をさらに北へ直進し、慈眼寺の東角へ向かう道路の内、約四十メートル)が整理消滅したためここ日枝神社境内に移されたものです。この塔の正面から左側に「平塚ステーション道」と刻まれていますのは、明治二十年に東海道本線平塚駅が開設されて駅に直接通じる道が整備され、それを記念して設置されたものです。そしてこの塔は、いろいろなところで紹介されていますが、現在ではかなり表面が剥落して昔の面影を失いつつあり、これを元の位置周辺に戻すには崩壊の恐れがありますので、この地に安置しています。平成十九年(2007年)十一月」と書いてあります。

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