
岡崎城址へ寄り道しましょう。

地図(19)の交差点では650mでしたが、登り坂を歩いてきてあと370mまでやってきました。

かなり急な登り坂をふうふうしながら歩き、岡崎城の本丸跡に建てられた無量寺へやっと到着しました。

左手には六地蔵がありました。

無量寺の全景です。

説明書きがありました。
「伊勢原市指定史跡 岡崎城址 昭和44年2月27日指定
(長いので抜粋します。)
岡崎城は平山城で相模平野を一望できる台地の先端部分に立地しています。源頼朝の功臣、岡崎義実(三浦の衣笠の城主三浦庄司義継の四男)が築きました。岡崎城の周囲は湿地がめぐり、南は断崖で、要害の一つでした。永正9年(1512年)8月、北条早雲の猛攻により攻め落とされました。」


石仏や無縁仏などがありましたが、城の遺構は見当たりませんでした。


地図の(19)まで戻って、(23)(24)へ向かいましょう。(19)までは下り坂なので楽ちんです。

地図(18)の場所に大句バス停がありました。みどりケ丘やふじみ野、そして湘南日向岡、高村団地などの新興住宅地がいくつかあります。

進行方向右側に歩道が整備されているので、そこを歩きます。

大句バス停から300mほどで次の城所入口バス停がありました。この写真を撮ってから、道路の反対側をみるとおじいさんと孫娘らしい中学生くらいの女の子二人がいて、じっと私を見ています。しばらくするとおじいさんが「そちらへいっていいですか?」と私に聞いてきます。道路を渡るには私の許可が必要なわけではないので、変なことを聞くおじいさんだなぁと思いましたが、「いいですよ。車に気をつけてください。」と答えました。一緒についてくると思った孫娘らしき女子中学生はそのまま動きません。「あれっ、一緒じゃないの?」と声をかけると、困ったような顔をして頷きました。孫娘ではなかったようです。このおじいさんはなんだろうと疑いの眼差しを向けると、「どこまで行きますか?」と聞かれたので、「伊勢原駅まで歩こうと思っています。」と答えました。すると「私もついていっていいですか?」というので、断る必要もないので、「どうぞ」といい、二人で歩き始めました。

歩き始めるとすぐに岡崎交差点に差し掛かりました。赤信号を待っている間に「伊勢原駅からどこへ行くんですか?」と聞くと、「塩川町へ行くんだよ」と返事がありました。塩川町?・・・・・このあたりには塩川町という町はありません。そのうち道路の向こう側を指差して、「昔はあのあたりに住んでたんだよ」とか「今も、自分の家はここから歩いてすぐのところにあるんだよ」など、話をそらすように次々と話し始めました。歩行者用信号が青になったので向こう側に渡り、スマホで「塩川町」を検索すると、なんと福島県に塩川町があり、今では市町村合併で喜多方市になっていることがわかりました。「おじいさん、塩川町って福島県の塩川町?」と聞くと、「そうそう。福島県耶麻郡(やまぐん)塩川町諏訪⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎番地へ行くんだ。」と得意げに言いました。「じゃ、新幹線に乗っていくの? 切符はあるの?」と聞くと、「ここからバスで行く」とむちゃくちゃなことを言うのです。認知症で迷子になっているんだなぁ、ということが推測できたので、伊勢原警察署に電話して保護してもらいました。おじいちゃんに会ってからパトカーが到着するまで30分以上かかってしまいました。
さぁ、気をとり直して矢崎道歩きを再開しましょう。あの女子中学生二人もきっと相当困っていたことでしょう。

道の左側に写真のようなアンパンマンとバイキンマンの石像がありました。

矢羽根バス停です。聞き馴染みのないバス停ですので、比較的新しいバス停かもしれません。


地図(24)の馬渡(まわたり)交差点に到着しました。近くに馬渡バス停がありました。


[題名]生きる意味
[著者]上田紀行
[発行]岩波書店
[定価]799円
[発行日]2005/1/20
経済的不況よりもはるかに深刻な「生きる意味の不況」の中で、「本当に欲しいもの」がわからない「空しさ」に苦しむ私たち。時には命をも奪うほどのこの苦しみはどこから来るのか?苦悩をむしろバネとして未来へ向かうために、いま出来ることは何か?生きることへの素直な欲求を肯定し合える社会づくりへ、熱い提言の書。
著者の講演を聞く機会があったので、この本を買って読んでみた。
「生きる意味」とは、「交換不可能」な「かけがえのなさ」の存在であるという。高度成長期を経て、物質的には豊かになった。ただし、本当に自分が欲しい物を私たちは手に入れているのだろうか。他者の欲求を自分の欲求とし、世間体を大切にしすぎてしまってはいないだろうか。著者は「21世紀社会における一番強い人間像」として、釣りバカ日誌のハマちゃんを上げている。うだつのあがらないサラリーマンで、出世街道にも乗りそびれているが、自分の「生きる意味」に支えられているので、彼はとても幸せそうである。現在は不景気なので全体的に閉塞的な状況であると考えていたら大間違いだ。景気が回復しても「生きる意味」が豊かになるとは限らない。真に豊かな生活、「生きる意味」のある生活とは景気とは全く独立している。


火伏不動尊へ行きましょう。

伊勢原小学校入口交差点です。

ここが火伏不動尊です。

こんな感じになっています。

伊勢原火伏不動尊の由来が書いてありました。
「このお堂のご本尊は、お不動さま(正しくは不動明王という)で、お身丈五十二糎(センチ)の木像の座像である。作者、年代共に定かではないが、歴史ある立派なお不動さまである。かつて、この町には修験道の道場として、聖真法印によって開かれた、知水山大覚院(現在は廃絶)の守り本尊であった「不動明王」を当地に遷坐したものと伝えられています。文化十三年(1816年)、伊勢原に大火が起こった際、猛火は忽ち全町に燃え広がったが不思議にも、この不動堂の所でピタリと火は止まった。人々はこの奇瑞を目のあたりにし、以後、「火伏の不動さま」と尊崇して今に至っている。また堂内には、見事に彫られた一対の烏天狗の面も奉納されてある。不動明王は一切の障害を打ちくだいて人々を悟りに導く仏さまであるところから、厄払いや、災難除けの仏さまとされている。」

これが本堂です。


[題名]でっちあげー福岡「殺人教師」事件の真相
[著者]福田ますみ
[発行]新潮社
[定価]594円
[発行日]2010/1/1
「早く死ね、自分で死ね。」2003年、全国で初めて「教師によるいじめ」と認定される体罰事件が福岡で起きた。地元の新聞報道をきっかけに、担当教諭は『史上最悪の殺人教師』と呼ばれ、停職処分になる。児童側はさらに民事裁判を起こし、舞台は法廷へ。正義の鉄槌が下るはずだったが、待ち受けていたのは予想だにしない展開と、驚愕の事実であった。第六回新潮ドキュメント賞受賞。
全国で初めての「教師によるいじめ」と認定された事件が、いじめなど全くなかったという話。どうしてこうなるのか。校長や教頭の判断ミスなのだろうが、そこまで自己保身をする気持ちがよくわからない。現場の教員にとって校長や教頭は味方ではないのか。生徒の親の言うことはすべて信じて、教員の言い分は信じない。教育現場はそういう状況なのか。すべてではないことを祈りたい。


地図の(43)は二の鳥居です。

正面に見える信号が(43)の三叉路です。

三叉路の南側にあるのが二の鳥居です。かなり大きな鳥居です。

近くの石碑には、「大正十二年九月一日の大震にて大鳥居も倒壊の災に罹し・・・・・」と書いてあり、最後には「昭和三年四月 七五三引谷戸有志」とありました。関東大震災で倒壊したものを昭和三年に復元したようです。

大山阿夫利神社二の鳥居復元の由来という石碑もありました。

そして伊勢原市の大山道と道標という説明板もありました。
「伊勢原市のシンボル・大山には、古来より山頂に石尊大権現が鎮座し、中腹には奈良時代の僧・良弁が開創した大山寺がありました。石尊大権現は降雨や豊作・豊漁、商売繁盛などの神として、大山寺の本尊・鉄造不動明王は、「大山のお不動さん」として篤い信仰を集めました。・・・・・・・・幕府や大山御師の活動などにより、江戸時代中期から後期にかけ、大山参詣は隆盛を極め、人々は関東一円はもとより、周辺の国からも相模大山を目指しました。日頃は大山寺不動堂(明治初年の神仏分離後は、阿夫利神社下社)から山頂の石尊社(現阿夫利神社本社)までの登拝は許されず、登山口にある門は閉じられていました。しかし、夏山と呼ばれる旧暦の6月27日から7月17日までの間は開扉され、万余の参詣者が集まったといわれています。その賑わいぶりは、葛飾北斎や安藤広重らが描いた浮世絵からもしのぶことができます(国芳「相州大山道田村渡の景」)。各地から大山へ至る道は、「大山道」とも呼ばれ、図にあるように、東西南北の方向から大山の麓へと伸びていました。特に江戸から大山への道は、参詣者が多いこともあってか、代表的な大山道とされています。日本橋を起点として、東海道戸塚宿の手前、柏尾から大山へ向う「柏尾通り大山道」、藤沢宿の西、四ッ谷から右折する「田村通り大山道」、大山への近道をされる青山百人町からの「矢倉沢往還」です。三つの道とも大山に至る途中、相模川を舟渡しで越えました。上流から厚木、戸田、田村の渡しです。道中手形も必要でなく、江戸からは3〜4泊の旅行であったといわれています。大山参詣の後、江ノ島・鎌倉を周遊して帰る、といった信仰と娯楽を兼ねた旅でもあったようです。図を見ると、伊勢原市内では大山道が北・東・南から大山の麓、石倉辺りに集まってくる様子がよくわかります。明治以降道路の改修や新設、耕地整理等により、大分変わっていますが、一部には往時の雰囲気を残すところがあります。また、赤丸は大山道道標の代表的なものの位置です。「此方 大山道」といった大山方向の案内は、「日本橋廿里、江の嶋七里」と大山帰りの方向を示す道標があります。文字だけの道標や不動明王がのる道標もあります。市内には110基を超える道標がありました。恐らく半数以上は大山道関連と思います。「薬師道(日向薬師)」、「一之沢道(淨発願寺)」と刻まれた市内寺院への道標や「かない道(平塚市金目観音)」、「飯山道(厚木市飯山観音)」、「ほしのや道(座間市星谷観音」といった巡礼道が刻まれた道標が多いようです。また、伊勢原や厚木、十日市場(秦野市)といった矢倉沢往還沿いの繁華な町への道案内も多いようです。道標の中では、庚申塔として造立されたものが一番目立ちます。道中の安全を祈ったものといわれています。写真の大山灯篭は、石尊灯篭あるいは大山献灯ともいわれ、夏山の時期に大山沿いや大山が見える所に立てられ、夜には灯が灯されます。現在、伊勢原市内には3カ所ほどで毎夏立てられています。現在は使われていないようですが、常夜燈にも灯が入りました。北斎の浮世絵のように、夜歩く参詣人も多かったようです。
平成22年3月 伊勢原市教育委員会」

江戸時代の道(各地から大山へ至る大山道)

大山灯篭


地図の(43)から(44)(45)を目指します。

コンビニの先に「文武両道の鑑 太田道灌公墓の入口」の案内板があります。伊勢原では毎年10月第一土日に伊勢原観光道灌まつりが開催されます。

ここが山王中学校前交差点です。直進します。

道灌塚前バス停です。

しばらく進んだ右側に「初詣・パワースポット 雨降山 大山寺」の看板がありました。「パワースポット」という言葉に魅かれて参拝する人も多いのでしょうね。

山王原バス停です。昔と違い、バス停の周囲は民家が多くなりました。太田道灌も草葉の陰でビックリしているかもしれません。

今度は「関東総鎮護 大山阿夫利神社 悠久四千年・・・心のふる里」という阿夫利神社の看板がありました。


[題名]桶川ストーカー殺人事件ー遺言
[著者]清水 潔
[発行]新潮社
[定価]680円
[発行日]2004/6/1
ひとりの週刊誌記者が、殺人犯を捜し当て、警察の腐敗を暴いた…。埼玉県の桶川駅前で白昼起こった女子大生猪野詩織さん殺害事件。彼女の悲痛な「遺言」は、迷宮入りが囁かれる中、警察とマスコミにより歪められるかに見えた。だがその遺言を信じ、執念の取材を続けた記者が辿り着いた意外な事件の深層、警察の闇とは。「記者の教科書」と絶賛された、事件ノンフィクションの金字塔!日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞受賞作。
この事件はよく記憶に残っています。異常性格のストーカーが殺人事件まで起こしてしまった。だけど真犯人は捕まらない。警察の不祥事とその隠蔽。市民の助けを無視し、告訴さえ取り下げるよう話してきた上尾警察署。本当にひどいことだ。猪野詩織さんが友人に言っていた「私が殺されたら犯人は小松。」というメッセージと、その友人がジャーナリストに言った「詩織は小松と警察に殺されたんです。」という言葉が頭から離れない。すべての警察が上尾警察署のようでないことを祈りたい。


本来の柏尾道(青山道)は、地図の黒実線のルートですが、ちょっと裏道を通ってみましょう。赤線のルートです。

旧道らしいカーブで少しづつ下っていきます。

やがて上粕屋神社に着きました。

説明書きがありました。
「上粕屋神社由緒 本神社の勧請年月日は詳らかでないが大同弘仁の頃、近江の国の日吉神を当初に移し勧請したと伝える。又、風土記によれば天平年中に僧良弁の勧請なりと言う。元禄四年幸末社殿を再建し、山王権現と称した。徳川幕府朱印高壱石五斗であった。明治二年六月、日枝神社と改称し、当時の例大祭は三月二日で、競馬神事神楽を奉納、六月二十二日と十二月二日には年の市を執行した。明治六年葵酉七月、字、和田内鎮座の熊野神社(朱印高弐石)と字、石倉上鎮座の白山社を合祀し、上粕屋神社と改称した。さらに、昭和三十九年四月、字、峰岸鎮座御嶽神社を、昭和四十一年十月、字、秋山鎮座の五霊神社を合祀して現在に至っている。
平成二十七年五月吉日」

境内には伊勢神宮参拝記念の石碑があり、

さらに大きな鐘もありました。

こちらが本殿です。


道路の反対側には推定樹齢600余年の大ケヤキが二本ありました。歴史を感じます。


地図には「七つ塚」と書いてありますが「七人塚」の誤りです。

七人塚の手前に山王原公民館がありました。

ここが七人塚です。白いプレートに七人塚と書いてあるのですが、薄くて読み取りにくくなっています。

こちらははっきりしています。

説明書きがありました。
「七人塚
江戸城の築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀叛心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣七名の墓で「七人塚」と伝えられています。この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に七つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています。」

こちらの石碑にはどうも「太田道灌・・・」と書いてあるようです。

この一番上の文字は「道」に見えるので、「道灌・・・」とあるのかなぁ。


地図の赤線を進みます。

太田道灌の墓が見えました。そこには寄らずに、左折します。

下り坂です。

ここ(地図の赤矢印)を右折します。

さらに進みます。

麻生酒店がありました。営業しているのでしょうか?

こちらは市光工業の大山寮です。


[題名]モンスターマザー 長野・丸子実業 「いじめ自殺事件」教師たちの闘い
[著者]福田ますみ
[発行]新潮社
[定価]1,512円
[発行日]2016/2/18
不登校の高一男子が自殺した。久々の登校を目前に──
かねてから学校の責任を追及していた母親は、学校に全責任があると
校長を殺人罪で刑事告訴する。
人権派弁護士、県会議員、マスコミも加勢しての執拗な追及に、
高校は崩壊寸前まで追い込まれ、教師と同級生、保護者たちも
精神的に追い詰められていく。
だが教師たちは真実を求め、法廷での対決を決意した。
前代未聞の裁判で明らかになっていったのは、子供を死に追い込んだ
母親の「狂気」だった。
どの教育現場にも起こり得る「恐るべき現実」を描ききった
戦慄のノンストップホラーノンフィクション。
高校生の息子が自殺したのは所属するバレーボール部でのいじめが原因であるとして校長が殺人罪と名誉棄損罪で告訴された事件。担任やバレー部員にも損害賠償を求める民事訴訟を起こした。そこに登場したのが人権派弁護士の高見澤昭治氏と社会派ルポライターの鎌田慧。この二人の杜撰な対応がとにかくひどい。何が人権派、何が社会派なのか。後に高見澤氏は東京弁護士会から戒告処分を受けた。自殺した子の母親の言動がおかしいのはおそらく多くに人がわかるのだろうが、それを真に受けると大騒動になるということ。自殺の原因はこの母親の虐待なのである。
最近読んだ「でっちあげ」と違うのは、学校側が一致団結していたこと。だから闘うことができ、勝利することができたのだ。

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