田村道34:相模線踏切
田村道35:マルエツ
小説の神様

[題名]小説の神様
[著者]相沢沙呼
[発行]講談社
[定価]842円
[発行日]2016/7/28
いつか誰かが泣かないですむように、今は君のために物語を綴ろう。僕は小説の主人公になり得ない人間だ。学生で作家デビューしたものの、発表した作品は酷評され売り上げも振るわない……。物語を紡ぐ意味を見失った僕の前に現れた、同い年の人気作家・小余綾詩凪。二人で小説を合作するうち、僕は彼女の秘密に気がつく。彼女の言う“小説の神様”とは? そして合作の行方は? 書くことでしか進めない、不器用な僕たちの先の見えない青春!
2人の高校生作家。男と女で、それもクラスメート。紆余曲折あったが、2人で物語を編んでいく。小説には人の心を動かす力があるのかないのか、小説の神様が見えるのか見えないのか。共に作家である2人がどうして一緒に物語を編んでいかなければならないのか。そこにはある理由があった。
「どうしてみんな本を読んでまで泣きたいのだろう?」
「違うんだ。そもそも、小説っていうのは、泣かないために読むんだよ。」

田村道36:山口家支店
田村道37:熊野神社・日枝神社

地図(26)の道祖神がみつからず。

地図(27)の熊野神社です。

大きな七五三縄です。

こちらが日枝神社の社殿です。

日枝神社といえば山王社です。

説明書きがありました。
「高田総鎮守 熊野神社
高田の鎮守熊野神社は、万治元年(西暦一六五八年)に高田村の領主大岡氏が紀伊国熊野本宮より遷祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。慶長八年(西暦一六〇三年)に大岡兵蔵(忠吉公)が、高田村のうちで百六十余石を徳川将軍より賜わり、爾後、明治維新に至るまでその子孫の采地であったのです。熊野神社を創建されたのは大岡隼人(忠高公)で、越前守忠相公の父君にあたる方です。現在の社殿は、勿論当時の建物ではなく、昭和二年に高田総氏子によって新築されたものです。
日枝神社(山王社)
当社は、享保五年(西暦一七二〇年)に大岡氏が、近江国東坂本の山王大権現を分祀された神社で、祭神は大山昨命であります。昔の社殿は、山王山と稱する丘陵上に建てられていて、そこは青々と松が茂り、高田耕地を眼下に見下す景勝の地でありましたが、後に、熊野神社境内に移されたものです。現在の社殿は、昭和四十七年に新築された建物です。」
日枝神社が熊野神社に移ってきて一緒になったようですね。

社殿の裏に石造物がありました。柵があって中に入れませんので、文字が読み取れません。

庚申塔と地神塔もありました。

田村道39:高田緑地
田村道40:六地蔵
田村道41:赤羽根神明神社1
医者とはどういう職業か

[題名]医者とはどういう職業か
[著者]里見清一
[発行]幻冬舎
[定価]1,037円
[発行日]2016/9/30
近年、受験業界における医学部人気は凄まじい。成績さえ良ければ、まさしく猫も杓子も医学部を目指す。と同時にあきらかに医師不適格な学生が医学部に多く存在する。そもそも医者の仕事がどんなものかわかって学生は医師を志しているのか。また一般の人は医者をどのような存在と捉え接すればよいのか。医学部受験から病院への就職、医者の労働環境、収入、出世、結婚、不倫その他のスキャンダル、医療事故とそのリスク、そして名医の条件と将来の医師像まで縦横無尽、融通無碍に説き明かした画期的医師論。
第1章 猫も杓子も医学部へ
第2章 受験勉強は医者の仕事に役立つか
第3章 医学部で何を勉強するか
第4章 語学について
第5章 研修医フレッシュマンの受難と憂鬱
第6章 医局とはなんぞや
第7章 学位について
第8章 医局制度の崩壊と逆襲
第9章 医者の収入明細
第10章 医者はどれだけ忙しいか ー 勤務医の生活
第11章 医者の労働環境とナースの視線
第12章 病院内での個人的関係
第13章 専門医と総合医 ー 医療における役割分担
第14章 臨床医の地雷原 ー 医者を取り巻くリスク(1)
第15章 「殺人罪」で逮捕される!? ー 医者を取り巻くリスク(2)
第16章 名医とはなんぞや
最終章 医者の将来
現役の医師が執筆した、タイトル通りに医者という仕事はどういう仕事かについて微細に記されている。内容は目次をみれば推測できるが、最終章の「医者の将来」が興味深かった。超高齢社会となり、多死社会となってきている我が国では、これからの医者の仕事は死なせることであるという。まさしくその通りだろう。そして穏やかに死なせるには医者よりも看護師の方がなれている。「寿命の番人」さえも看護師が引き受けはじめているのである。10年以上先の話しであるが、医者の仕事が少なくなり、いずれ「医学部は出たけれど・・・」という時代がやってくるだろうと筆者は予言している。

田村道42:赤羽根神明神社2
田村道43:赤羽根神明神社3


やっと本殿が見えました。相★ 赤羽根 鎮座 神明大神と書いてあります。

比較的新しい本殿ですね。

神明大神由緒が書かれていました。
「祭神 大日★貴命
合祀神 素戔嗚尊・菅原道真公・福都日神
大日★貴命は天照大神の別称、大日★貴ともいい日神とある。合祀の三神は、八雲神社、天満宮、荒魂神社等の神であったが、明治四十三年十月の一村一社制度の施行に伴い、上赤(羽根)中赤(羽根)の二社は、下赤羽根の神明大神に合祀された。
(中略)
昭和五十七年新湘南道路計画に当たり、新しく移築された敷内千三百余坪、総てが社領であり、平坦な境内には数百年の樹木が並び、供鐘燈籠が今も神社の荘重な姿を映す。七月には歴史ある浜降祭と九月の例大祭と御輿渡御で賑わい、日々常々は地区民が平穏を願う鎮守神である。
平成十九年七月吉日 赤羽根神明大神氏子総代」
ここへ来るまでの参道の樹木は樹齢数百年もあったのですね。

記念碑がありました。
「湘南地域交通緩和に伴う新湘南国道の建設にあたり、神明大神境内地参道の一部が建設省の計画路線に掛かる。このため神社の財産たる境内地保全と神社の尊厳維持のため深く憂慮し、財産処分の決定については氏子を挙げその英知を結集する。昭和五十四年を起点として建設省との度重なる協議の末、買収価格に神木銀杏の保存を条件に加えて譲渡成立する。昭和五十五年神社本庁への財産処分申請を手始めとして、境内地の模様替え造成工事と神殿、神楽殿、社務所、手水舍等主要建築工事の設計契約を経て、諸工事は年度を追って着々と進み各々その竣工をみるに至る。思うに昭和五十八年、御遷宮までの5か年間建設委員をはじめ氏子は一致団結してその精魂を傾け数多の困難を克服して、ひたすら由緒ある神明大神の保全と御神徳の発揚を念じ、また関係建設業者の熱意ある貢献のもと慈に御遷宮の大業を成就するに至る。
昭和五十八年九月十七日 赤羽根 神明大神氏子中」
自画自賛の内容だなぁ(笑)

田村道44:松林村役場跡

地図(32)の赤羽根神明大神から(33)の松林村役場跡へ向かいます。

その途中に大きな瓢箪を発見しました。井上酒店です。

松林村役場跡がありました。

松林村の由来が書いてありました。
「この前を通る大山街道は、田村の渡し(寒川)で相模川を渡る大山参りの近道で、江戸の商人・職人をはじめ多くの文人・墨客が往来した。赤羽根・甘沼の丘陵の南面をほぼ平坦に並行する、のどかな街道であった。正面に日本一の富士を仰ぎながら夫々大山参りの楽しい旅をしたことでしょう。しかし静かな農村にも幾度か行政の改変があり、各村々が合併を重ねていった。明治二十二年(一八八九年)赤羽根村を始め、室田・菱沼・小和田・高田・甘沼・香川の七カ村が一つになって松林村となり、此の地に松林村役場が建設され、村長には水越良介氏(後に茅ヶ崎町町長・神奈川県議会議員を歴任)が就任した。明治四十一年、松林村、鶴嶺村、茅ヶ崎村が合併して茅ヶ崎町ができるまでの約二十年間、此処松林村役場は地方自治の重要な拠点であった。昭和二十二年市制が施行された当時の茅ヶ崎市の五万余の人口も、市制六十周年を迎えた今日は約二十三万と急激な増加を見るに至り湘南の中核的都市となりました。大山街道に添って湘南バイパスが建設されるなどに至り、かつてのふるさと的農村風景も次第に失われつつあります。」

田村道45:旧道歩き1
田村道46:旧道歩き2
田村道47:裏道
夫以外

[題名]夫以外
[著者]新津きよみ
[発行]実業之日本社
[定価]640円
[発行日]2016/4/15
夫が急死した40代女性。子もなく、未亡人となった彼女は、遺産相続人となった亡夫の甥に心ときめいてしまい…(「夢の中」)。共通の趣味をもった男友達がきっかけで離婚された女性が、子連れで実家へ戻ると、父の再婚話が待っていた(「セカンドパートナー」)など、大人の女たちの日常が舞台となるミステリー。驚きのラストが読ませる全6編。
タイトルに驚かされますが、家族関係・人間関係をテーマにした短編集です。同じ家族でもお互いに気持ちがわからないこともあるのに、他人ならなおさらです。と思いたいのですが、実は家族や親戚は他人以上に利害関係が強く、言葉と気持ちが一致せずコミュニケーションがとりづらい時もあります。難しく考えると難しいですね。Take it easy!がいいのかもしれません。

田村道48:折戸地蔵
田村道50:四ツ谷道標1


一の鳥居のすぐそばに道標がありました。

「大山みち」と読めますが、その上は読み取れません。

「平成十七年七月一日再建 地主 鈴木得郎 四ツ谷町発起人一同 大山阿夫利神社 目黒」とあります。

四谷不動(大山道標)について解説がありました。
「東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝四年(一六七六)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治四年(一六六一)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも七月一日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。
平成五年二月 藤沢市教育委員会」

田村道51:四ツ谷道標2
田村道52:四ツ谷
田村道53:羽鳥
グランドステーション(1)(2)


[題名]グランドステーション(1)(2)【マンガ】
[著者]池田邦彦
[発行]講談社
[定価]各616円
[発行日]
(1)
毎日何万人も利用する日本有数のターミナル・上野駅。人、物、列車で賑わう”北の玄関口”の鉄道公安室に勤務する樋口耕平は、犯罪捜査を夢見ながら、乗客案内や酔漢対応など日々の業務に追われていた。理想と現実の間に悩みながらも相方の諸岡と今日も駅構内に立つ!
(2)
上野駅鉄道公安室の樋口耕平(ひぐちこうへい)は、駅や列車内でのトラブル対応に悪戦苦闘しながらも、日々の業務にやりがいを感じ始めていた。ある日、樋口は指導役の諸岡(もろおか)が、かつて公安職員の花形である“犯罪捜査”に携わり、樋口の父親の罪を暴いた過去を知ってしまう。公安職員の誇り、諸岡に対する疑念、そして目を背けてきた家族ーー。複雑な思い抱える中、樋口はある事件に巻き込まれていくーー。
鉄道の公安の物語です。昭和の時代のガムシャラさや強い意志が感じられます。懐かしい昭和がよみがえります。

田村道54:七面地蔵
田村道55:おしゃれ地蔵


メルシャン藤沢工場をあとにして坂を下っていくと、進行方向右側にこんなお地蔵さんがありました。白粉と口紅をしているように見えます。

地図(6)のおしゃれ地蔵です。
「『女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。』と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく『おしゃれ地蔵』と名付けられたとされる。形態的には『地蔵』ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。
平成七年十二月 藤沢市教育委員会」
なるほど!

この大きな煙突は石名坂環境事業所の煙突でしょうか。

地図(8)のやや左側の引地橋西交差点です。引地橋の下には引地川が流れています。

田村道56:湘南高校入口
田村道57:伊勢山公園1
田村道58:伊勢山公園2

頂上には庚申供養塔がありました。

見猿・言わ猿・聞か猿の供養塔がありました。

こちらは「北辰妙見大霊病神」と書かれています。

市指定重要文化財(有形民俗文化財)なのだそうです。
「承応二年(一六五三)庚申供養塔
庚申信仰について
これは十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰です。この源流は、人の体内にあって、人命にわざわいをおよぼす「三尸」という虫の害をふせいで、長寿を願う道教の信仰にはじまっています。江戸時代、万治・寛文頃(一六五八〜一六七二年)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり「庚申講」ができ、庚申の夜、当番の家に集まって飲食歓談したり、供養塔を建てるなどの行事が盛んになりました。現在、市内には三百数十基の庚申供養塔が確認されていますが、このうちの十五基が藤沢市の重要文化財に指定されています。この近世庶民の素朴な祈願・信仰の遺産である庚申塔をともども大切に保護し後世に伝えてゆきたいものです。
昭和五十二年四月十三日指定 藤沢市教育委員会」

頂上の中央部には写真のような忠魂碑がありました。
