
[題名]棋士という人生 ー傑作将棋アンソロジーー
[著者]大崎善生 編集
[発行]新潮社
[定価]680円
[発行日]2016/10/1
吹けば飛ぶような駒に人生を賭けた者たち。日々盤面に向かう彼らは何を追い求めるのか。大山康晴、升田幸三、中原誠ら往年の大棋士たちの横顔、才能空しく脚光を浴びずに消えた悲運の棋士の肖像、孤独に戦い続ける若手棋士の苦悩……作家、記者、そして棋士自身が綴った文章の中から二十余の名品を精選。将棋指しという職業の哀歓、将棋という遊戯の深遠さを写し出すアンソロジー。
高いIQを有し、壮絶な戦いを繰り広げている棋士たち。全国から天才少年たちが集まった奨励会を勝ちぬけないと棋士になれない。作家や記者や棋士自身のエッセイを集めたもの。なかなかの名作揃いだ。
藤井聡太四段は30連勝なるか!




しばらく進むと正面に大きな鳥居が見えてきました。地図(10)の白旗神社です。

白旗神社の説明です。
「御祭神 寒川比古命 源義経公
配神 天照皇大神・大国主命・大山祀命
由緒 古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治五年(一一八九)閏四月三十日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」
昔の昔は、寒川神社と呼ばれていたのですね。

旧東海道の藤沢宿の地図がありました。

東海道五十三次の藤沢宿の絵です。遊行寺橋の様子です。


神社の裏に数多くの石造物がありました。

寛文五年の庚申供養塔です。

寛文五年庚申供養塔(有形民俗文化財)の説明です。
「庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐる庚申の日に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字はナモアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。
昭和五十二年四月十三日指定」

これは江の島弁財天道標です。「一切衆生」と書いてあるようです。

「ゑのし満 かまくら みち」と書いてあります。

これはなんでしょうか? よくわかりません。

こちらには享保二十年と読めます。



白旗交差点に戻り、東へ少し行ったところに、「伝 源義経首洗井戸」の案内表示がありました。行ってみましょう。

ここがその場所です。地図の赤矢印のあたりです。

説明がありました。
「伝 義経首洗井戸
源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われ奥州(東北地方)に逃げていましたが、一一八九年に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮にのって川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています。この絵は歌川国芳が描いた源義経の浮世絵です。ここから二〇〇メートルほど北の白旗神社は祭神として義経を祀っており、境内には、藤沢の御首と宮城県栗駒市の判官森に葬られた御骸の霊を合わせ祀った源義経公鎮霊碑などがあります。また、常光寺南側の公園には、弁慶塚と記された石碑が祀られています。」
ふ〜ん。

こちらには源義経史蹟 藤沢市と書かれています。


[題名]大山詣り
[著者]川島敏郎
[発行]有隣新書
[定価]1,080円
[発行日]2017/4/25
「大山詣り」の日本遺産認定で注目される大山は、江戸時代に庶民の信仰を集め、関東一円からご利益を求めて参詣する人々で賑わった。浮世絵などの絵画史料に活写されたその賑わいは、旅案内書、日記などでも窺い知ることができる。「大山詣り」の道中すべてを演出したのは、修験を出自とする御師(おし)たちであった。大山へと向かう街道(大山道)には、鳥居や数多くの道標などが設置され、参詣客の便宜を図った。本書は、大山の歴史を通観し、「大山寺縁起絵巻」、「大山不動霊験記」をはじめとする各種史料を読み解くことで、大山信仰の全貌を描き出し、現在辿ることのできる史跡にまで言及する。
伊勢原にある「大山(おおやま)」の歴史が、古代から現代までまとめられています。江戸時代には一世を風靡して、大いに賑わったという。当時は各地から大山に通じる大山道が整備され、現在になってもその痕跡を知ることができる。これを読めば大山のことがまるごとよくわかる本だ。


庚申供養塔がありました。

説明文がありました。
「市指定有形民俗文化財 昭和五十二年(一九七七)四月十三日指定
万治二年・寛文九年 庚申供養塔
向かって右が万治二年(一六五九)、左が寛文九年(一六六九)に造立された庚申供養塔です。ともに塔身に笠石を乗せています。
万治二年塔は、塔身正面に「萬治二年」「己亥正月吉日」の造立年記があり、下部に十三名の造立者名が陰刻されています。(中略)
寛文九年塔は、塔身両側面に「寛文九己酉年」「五月廿八日」の造立年記が陰刻されています。(中略)
下方には正面と両側面に「見ザル・聞かザル・言わザル」が一体ずつ配されています。庚申塔に三猿像が彫られているのは、三尸に告げられないように、あるいは庚申の申が猿に通じるからなどの説があります。」

こちらが万治二年塔です。

こちらは寛文九年塔です。

六地蔵もありました。


[題名]大人の鉄道雑学
[著者]土屋武之
[発行]サイエンス・アイ
[定価]1,080円
[発行日]2016/9/25
出張や旅行で使う新幹線、朝夕に乗る通勤電車…。東京のラッシュ時など、多いときは列車1本で1000~4000人を運び、何本も安全に走らせるのが、日本の鉄道のすごさです。それを支えるしくみはもちろん、多彩な車両や設備の豆知識もお伝えします。普段なんとなく使っている鉄道を見る目が変わる、列車に乗るのがもっと楽しくなる1冊です。
意外に知られていない鉄道豆知識や、運行のしくみなどわかりやすく解説されています。そういえば、昔はそうだったなぁ、と古きを温めることもできます。技術の進歩は素晴らしいものですが、その一方で夜行寝台列車の激減など残念な変化もありますね。




地図(21)の砥上公園に道標がありました。

道標の説明文です。
「市指定重要文化財(建造物) 昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定
江の島弁財天道標
この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を、江の島で考案したという杉山検校(杉山和一、一六一〇〜一六九四)が寄進したと伝えられています。現在、市内外に十数基が確認され、市内所在のうちで十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部のとがった角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。
市役所新館脇歩道橋付近に移設されていましたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により、「江の島道」の路傍にあたるこの地に移設したものです。
平成二十七年(二〇一五)十一月 藤沢市教育委員会」
藤沢市役所へ行ってもな〜んにもなかったってわけですね!

石上(いしがみ)の説明文がありました。
「石上(いしがみ)
鵠沼を中心とした一帯は天平時代(七三五年頃)には、「高座郡(たかくらぐん)土甘郷(とがみごう)」と呼ばれ、鎌倉時代には「砥上が原(とがみがはら)」とよび西行法師や鴨長明も砥上が原の歌を残しています。
江戸時代に入ると江の島、大山詣の道筋で賑った石上舟渡場があり、その北側に砥上地蔵尊(一六五五)が建立されました。
この辺りの開発の祖の鎌倉武士を祀ったといわれる石上神社は度々水に浸り、昭和九年に現在の地に移されました。 藤沢市」


砥上公園内にも庚申供養塔がありました。
さぁ、移転した石上神社に向かいましょう。


[題名]旅と鉄道 2017年7月号
[発行]朝日新聞出版
[定価]1,000円
[発行日]2017/5/20
おいしいレストラン列車、新時代の食堂車に乗ろう! 今、全国で人気急上昇中、列車の旅を楽しみながら、地元食材の優雅な食事を味わう、鉄道旅行のニューウェーブ、 “新時代の食堂車"ともいえるレストラン列車の旅を大特集。全国を走る36のレストラン列車を網羅、さらに呑み鉄&グルメ鉄におすすめ路線案内まで、おいしい食事とお酒を楽しむ列車にこだわった特集です。
●全国のレストラン列車、36列車をすべて掲載全国のレストラン列車をすべて掲載しています。もちろん車内で味わえるメニューや予約方法などのデータを詳しく掲載。これから夏に向けて、おすすめ情報が満載です。
食事を味わえる列車がいくつかあるのは知っていましたが、こんなにたくさんあるとは驚きです。鉄道が単なる輸送手段から、時代とともに利用価値が変化してきているようです。



地図(26)の馬喰橋です。

「うまくらばし」と読むようです。

説明書きがありました。
「馬喰橋(うまくらばし)
『新編相模国風土記稿』は、源頼朝が片瀬川に馬の鞍を架けて橋の替わりにしたことから馬鞍橋、また昔馬がこの橋にさしかかるといななき突然死んでしまうことから馬殺橋と呼ばれたが、ある時に行者聖が橋の石を取り替えてから災難はなくなったと伝えています。ほかにも文化五年(一八〇八)の片瀬村の石橋建立発起帳には馬鞍結橋をあります。何度も流出し、明治末年には長さ二間半(約4.5m)、幅二間(約3.6m)の木の橋となっていました。この付近は江戸時代に江の島参詣の往来のほか、海上交通の拠点としても賑ったところです。
平成五年二月 藤沢市教育委員会」


[題名]旅と鉄道 2017年7月号
[発行]朝日新聞出版
[定価]1,000円
[発行日]2017/5/20
おいしいレストラン列車、新時代の食堂車に乗ろう! 今、全国で人気急上昇中、列車の旅を楽しみながら、地元食材の優雅な食事を味わう、鉄道旅行のニューウェーブ、 “新時代の食堂車"ともいえるレストラン列車の旅を大特集。全国を走る36のレストラン列車を網羅、さらに呑み鉄&グルメ鉄におすすめ路線案内まで、おいしい食事とお酒を楽しむ列車にこだわった特集です。
●全国のレストラン列車、36列車をすべて掲載全国のレストラン列車をすべて掲載しています。もちろん車内で味わえるメニューや予約方法などのデータを詳しく掲載。これから夏に向けて、おすすめ情報が満載です。
食事を味わえる列車がいくつかあるのは知っていましたが、こんなにたくさんあるとは驚きです。鉄道が単なる輸送手段から、時代とともに利用価値が変化してきているようです。

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