
当初は名古屋発8時46分の快速(恵那着9時55分)の予定だったが、普通列車で多治見まで行き、そこで当初の予定の快速に乗り換えることにした。写真は千種~大曾根あたり。このあたりから雨が降り始めた。

名古屋近郊の秘境駅の一つである定光寺駅。雨で煙っている。

その次の古虎渓駅。時間があったらこの二つの駅には途中下車してみたい。

多治見駅に9時13分着。この列車はここで折り返すので行き先表示がすでに「名古屋」になっている。

多治見駅名標。多治見からは美濃太田へ向かう太多線も出ている。美濃太田からは長良川鉄道に乗り換えることもできる。

多治見市マスコットキャラクターのうながっぱ。観光案内所の隣でこちらを見つめている。
名古屋0831ー0913多治見 中央本線

[題名]食堂のおばちゃん(5) 〜真夏の焼きそば〜
[著者]山口恵以子
[発行]角川春樹事務所
[定価]600円
[発行日]2019/1/18
海老フライ、大根バター醤油、餡かけの茶碗蒸し、ニラ玉豆腐、ホウレン草と豚バラの酒鍋、焼きそば…。姑の一子と嫁の二三に、今や大きな戦力となった万里の三人で営む「はじめ食堂」は、今日も常連客の笑顔がいっぱい。そんなある日、二三の娘・要が、最近毎日のようにランチに現れる男性を見て「四和ビル爆破事件の逃亡犯に、そつくり」だと言う…。心も身体も幸せになる、続々重版の大人気人情食堂シリーズ、第五弾。文庫オリジナル。
楽しい楽しい下町の食堂シリーズも第五弾。バイトで働いている万里ももう三年。腕をあげてきた調理人が次に目指すのは調理師免許の獲得。20歳の彼女(?)もできたようだが、幼馴染の要との仲はどうなるのか?

多治見駅構内をぶらぶらして時間を潰そう。しかしそう見どころもないので、ちょっと早いけれどホームに戻る。この行動が幸いした。実は私は9時27分発を9時37分発と勘違いしており、そのまま時間をつぶしていたら危うく乗り遅れるところだったのである。妻からはイエローカードが出された。

恵那駅に到着した。かなり雨が強くなっている。

恵那駅には恵那市観光物産館「えなてらす」が併設されている。お土産屋+観光案内所である。


JR恵那駅とえなてらすの間に明知鉄道恵那駅がある。明知鉄道は昭和8年(1933年)に国鉄明知線として恵那(当時は大井)~阿木まで部分開業し、翌年6月に明知駅まで全線開業となった。国鉄の廃止対象路線となったため昭和60年(1985年)11月に明知鉄道明知線となった。終点の明知駅は明知鉄道開業時に町名に合わせて明智駅と改称した。

恵那駅構内ではSLの顔をしたC12のマスコットキャラクターが出迎えてくれる。


明知鉄道全線フリーきっぷを1枚、そして恵那〜明智までの片道切符を1枚買った。

恵那市は2004年10月25日に恵那市、岩村町、明智町などが合併し新生「恵那市」となった。恵那市明智町が明智光秀生誕の地として知られている(諸説あるようだが)。
多治見0927ー0955恵那 中央本線 快速

[題名]これは経費で落ちません!(5) 〜落としてください森若さん〜
[著者]青木祐子
[発行]集英社
[定価]550円
[発行日]2019/2/25
天天コーポレーション社員の悲喜交々の日常。経理部の佐々木真夕、営業部の山崎柊一、総務部の平松由香利……森若さんを取り巻く、一癖も二癖もある彼らの物語。
佐々木真夕が経理部に異動してきて一か月。異動直後にミスをしてからは、数字が恐くて仕方がない。そんな真夕のストレス発散を兼ねた趣味は、ビジュアル系バンドの追っかけだ。イチオシはCAROLINEのボーカル“アレッサンドロ”。追っかけ仲間からアレッサンドロも参加するという、複数バンドの合同打ち上げに誘われるけれど……?
<収録作>
「佐々木真夕 初恋アレッサンドロ」
「山崎柊一 カラークリスタル」
「平松由香利 ゾンビと嘘と魔法の笛」
「中島希梨香 それでもあたしは男っぽい女」
「田倉勇太郎 三十八歳の地図」
太陽君と沙名子さんとの恋のゆくえはどうなったのかが気になっていた。「これは(経費で)落ちません!」ですが「沙名子さんは落ちてしまった」のかと楽しみにしていましたが違いました。他の登場人物に焦点を当てた独立した短編五編です。個性的なキャラクターが魅力的ですね。

まずは大正路地。

この橋を渡った先が大正路地だ。

こんな感じ。路面が雨でぬれている。

黒壁に白い窓枠が映えている。

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大正路地
素封家であり、二代目町長、濃明銀行の創始者として町の発展に功績のあった故橋本幸八郎氏宅の年貢米を納めた米蔵と、江戸時代から続いた旧家の呉服問屋の反物類を入れた蔵の並ぶ路地です。蔵の白と黒のコントラストがあざやかです。この黒い羽目板は、数個の桟を取りはずすとすぐに一面の土壁となって防火壁の役目をはたし、窓を閉ざせば外からの火を防ぐ仕組みになっています。
この坂道を登ると大正村役場に出ます。
また、この坂道は明知城址への登城口。また、八王子神社、遠山氏菩提寺および歴代の墓、明智光秀公供養塔への近道でもあります。
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大正時計店の目の前が大正村役場だ。

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日本大正村役場(旧明智町役場)
明治22年7月、明知町は町制を布きました。
明治39年、本格的洋風建築として建てられ、昭和32年9月まで、明智町役場として使用されていました。
瓦拭き寄せ棟造り二階建ての木造洋館で、当時としては目を見はるほどのモダンな建物でした。以来町の中心として衆議をはかり、町の発展を見つめて来ました。
平成12年5月に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
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日本大正村開村記念の石碑があった。

日本大正村役場という看板がある。

大正モダンのコスプレをした若いカップルがいた。この写真の「大正107年」という表示を見て、男性が「大正は15年で昭和が64年で平成が30年だから計算すると大正107年になるんだね」と説明すると女性は「えっ、大正ってたった15年しかなかったの?」と返事をしていた。カップルの将来が心配になってしまった(笑)。

日本大正村方言選番付があった。
「あんじゃない」→大丈夫だ、「しんじょか」→たしかに、「やくと」→わざと、
「べんこい」→かしこい、「かんかない」→しょうがない、「どえんけん」→でたらめ、
「ごたいげ」→気を使わせた、「へじくなる」→しゃがみこむ
まったくわかりませんねぇ。

こちらは東濃弁。東美濃地方ということだろう。
「やっとかめ」→久しぶり、「かんかなぁ」→しかたがない、「いんね」→いいえ・ちがう、
「おおじょおこく」→どうにもならない、「わや」→無茶苦茶な様子、「まわし」→同意・したく
こちらもわかりませんねぇ。

レトロな電話機にしてはかなり新品だった。

全体像はこんな感じである。


さらに坂を登っていくと大正ロマン館になるが、その途中に面白い看板を発見! 「保母歯科医院」。保母さんがいると子どもの歯の治療がしやすくなるのか、あるいは、ほとんど歯科医院だけど時々は他の仕事をしているのか(笑)


大正ロマン館は立派な建物だ。ここは有料で、大正ロマン館・大正時代館・日本大正村資料館と合わせて500円というのでチケットを2枚買った。

大相撲の春日野元理事長の像がある。

こちらは日本大正村の初代村長である高峰三枝子氏の像がある。

館内の様子。展示物の写真撮影は禁じられていた。NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」「わろてんか」で使用・収録されたアコーディオンやハーモニカがあったがそれほど感動できず。

大正ロマン館の隣にある旧三宅家に寄る。

全体像である。

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旧三宅家
当家は、古い歴史をもつ家柄であります。古記録によれば旗本遠山家に仕えていた第4代伊賢が馬木村に移住し農業に従事、その後元禄元年(1688)第5代与次郎重正に依って現在の母屋は普請されたと伝えられています。
現在残っているものは母屋だけであるが、近代中期の民家の特徴である鳥居建ての形式が残っています。
昭和53年に町文化財に指定後、平成3年明智町に寄贈され、綿密な調査に基づき当時の姿に復元されここに移築したものです。
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屋根のカヤが不足しているので、北海道のススキを屋根の真ん中に使っているということだった。

[題名]夫の墓には入りません
[著者]垣谷美雨
[発行]中央公論新社
[定価]680円
[発行日]2019/1/25
ある晩、夫が急死。これで嫁を卒業できると思いきや、舅姑や謎の女が思惑を抱えて次々押し寄せる。“愛人”への送金、墓問題、介護の重圧・・・がんじがらめな夏葉子の日々を変えたのは、意外な人物と姻族関係終了届!? 婚姻の枷に苦しむすべての人に贈る、人生逆転小説。
なかなか面白い。あっという間に読み終えてしまった。夏葉子が変な男にひっかかりそうになったのはご愛敬だが、自由になれてハッピーエンド! しかし子供がいたらどうなるのかな? 資産がたっぷりあればいいけど、そうでなければ自分で子供を養っていくしかない。預貯金は大切だな。
食事をとろうと町の中心へ向かっていると再び雨が降り出してきた。傘をさしての移動となる。

父がガラス屋をやっていた関係で窓ガラスに目が行く。昭和時代の板ガラスは面白い。これはたしか「からたち」だったかな。

喫茶店があったのでここで昼食を食べよう。「大正村名物 コーヒー ハヤシライス 笹乃家地階アミー」と書いてある。昔の建物を利用した普通の喫茶店かと思いきや・・・・・

ガラス戸を開けると、「画廊スナック ようこそカレーパラダイスへ」とあり、

7-8段のコンクリート製の階段を下った先にはドアがありその中がなんだか赤くなっている。左には「BAR(Rは欠落か) AMI」と書いてある。


店内はこんな感じでスナックを居抜きで喫茶店にしていたのかと思った。いずれにしても面白いお店でよかった。

父がガラス屋をやっていた関係で窓ガラスに目が行く。昭和時代の板ガラスは面白い。これはたしか「からたち」だったかな。

喫茶店があったのでここで昼食を食べよう。「大正村名物 コーヒー ハヤシライス 笹乃家地階アミー」と書いてある。昔の建物を利用した普通の喫茶店かと思いきや・・・・・

ガラス戸を開けると、「画廊スナック ようこそカレーパラダイスへ」とあり、

7-8段のコンクリート製の階段を下った先にはドアがありその中がなんだか赤くなっている。左には「BAR(Rは欠落か) AMI」と書いてある。


店内はこんな感じでスナックを居抜きで喫茶店にしていたのかと思った。いずれにしても面白いお店でよかった。

恵那のご当地グルメは「えなハヤシ(ハヤシライス)」らしい。
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恵那は「ハヤシライス」の生みの親、早矢仕有的(はやしゆうてき)ゆかりの地です。
岩村城跡がある岐阜県恵那市。かつて岩村藩は、美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として周囲を支配していました。「ハヤシライス」生みの親と言われている早矢仕有的(1837〜1901)は岩村藩領の武儀郡笹賀村(現在の山県市)に生まれ、幕末の頃には岩村藩の藩医でした。明治初期の横浜の病院医師勤務時代もっと栄養を取るべき患者などに、滋養に富み美味で簡単にできる料理として、牛肉の細切りと野菜を一緒に煮込みご飯にかけて食べることを考案。「ハヤシ先生の料理」という様な名で評判となり、明治後期には「ハヤシライス」という名が定着したと言われています。
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お店の年配の女性にメニューを尋ねると申し訳なさそうに「カレーライスとハヤシライスしかできないんですよ」と答える。いえいえ、ハヤシライスを食べたくて来たのですから、全く申し訳なくないんですよと思い、「ハヤシライス二つ」を注文する。
たちまちカレー皿に出てきたハヤシライス。食べてみると酸味が強いが美味しい味である。

自家製のコンニャクも付け合わせに提供してくれた。こういう気配りがうれしい限りだ。
いろいろと話をすると、ここは旅館笹乃家の一部であり、大正時代から営業していて昔はキャバレーだったという。旅館は今年の秋で営業を終えた(この秋までやっていたのが素晴らしい)。表の看板に「地階」と書いてあるのは、ここあたりは段差があるので反対側の入口からは階段なしでそのまま入れるという。

もう一つの入口の様子がこちら。本当に表と裏の顔があった。

ドアをあけると「コーヒー・ビール・アィスクリーム・ジュース・五平もち・山菜そば」という看板もあった。その上に「ハヤシライス・カレー 700円」「ただいま営業中」と書いてある。昔はメニューが多かったんだねぇ。

内側のガラス戸はこんな感じ。ガラスのステンドグラス風の模様がレトロで素敵である。

こちらの入口のそばにはうかれ横丁の渡り廊下がある。

うかれ横丁を通って大正時代館へ向かう。ここも有料だが大正ロマン館での共通チケットで入ることができる。

明治から大正初期までの水着だ。きっとハイソな人しか海水浴なんてできなかったのだろうなぁ。

「カフヒー」はコーヒーのことだろう。

「大正時代の明知町―楽しみー」と書いてある。その中に「田舎町にできたキャバレー」という記事を発見。

ちょっと読んでみる。
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田舎町にできたキャバレー
大正9年、中馬街道にキャバレーができた。紡績会社のお偉方が他所から来たお客さんを連れたり、町の若者や糸紡ぎの女工さんたちが仲間連れで来て、賑やかな毎夜であった。大正メロディーに合わせて人伝てに覚えたダンスに興じ、カクテルを楽しんだ。田舎町の法楽境キャバレー「ヒノデ」は明知町の名物であった。
料理旅館
大正3年頃の笹乃家の玄関前。人力車のそばの和服の少年は誰か。2階からきれいどころが眺めている。門灯がシックな姿を見せている。右下はポストらしい。
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どうもさきほどのアミーのことだろうが、ここには「ヒノデ」となっている。ちょっと疑問だが、その後にこの疑問は解ける。

「理想的台所用品及び食器」が写真付きで掲示されている。

こちらは昔の「朝日グラフ」。カラーである。

カテイ石鹸って家庭石鹸のことだろうか?

昔の明知町のジオラマがあった。

ハヤシライスを食べたアミーの場所をよく見ると、「キャバレー・ヒノデ(バー・アミー)」と書いてある。ヒノデとアミーは同じ場所だったのだ。おそらく最初はヒノデで後にアミーに代わったのだろう。これで先ほどの疑問は解消した。

昔の地図には「笹乃家」が載っていた。

大正時代館には別棟がある。そこの2階にあがるとご覧のような旧帝国ホテルのジオラマがあった。犬山の明治村に玄関が移築保存されておりその様子はテレビでみたことがあるが、ホテル全体がこれほど大きかったとは知らなかった。

「口腔ハブラシ」のポスター。

切子などのグラスが並んでいる。


大正時代に完成した東京駅。

路面電車も活躍していた。

こちらが本館。

こちらが別棟で、1階はカフェー天久になっている。

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カフェー天久
カフェーは明治末期の東京に始まり大正期に各地の都市に広がりました。大正12年の開店で昭和の初期にかけて文化人の間に名を馳せた。
京都千本通りのカフェー「天久」が昭和61年10月店を閉じるに当たって、昔懐かしいSPレコードや内装、什器一切を大正村に寄贈され、この「うかれ横丁」の一郭に復元されました。
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中馬街道と南北街道の交差点に出た。

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南北街道と中馬街道の出逢い
この辻を東へたどれば伊那路、はては塩尻、長野まで通じています。南へ下れば奥三河から岡崎へ。また西にたどれば尾張へと、いずれも下り道。明智はやはり山の町です。
かつてこの辻は、三河地方から信州や木曽へ、塩や織物を運んだ南北街道と、南信飯田地方から瀬戸や尾張へ繭や薪を送った中馬街道の二つの街道の出遭うところ、いわば幹線の交差点。馬子の唄声やお伊勢参りの人たちで賑わった宿場の中心です。
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ブラタモリだったらCGで往時の賑わいを再現していることだろう(笑)

交差点を左折し南北街道を北に進む。

昼食を食べたアミーが左手に見えてきた。

ここが旅館笹乃家の入口だったようだ。

その横にアミーの入口がある。

そのまま進むとやはり左手に日本大正村資料館と大正の館がある。

有料だが共通チケットにて入館できる。

順路としてはまず大正の館から見学する。

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大正の館(旧橋本医院)
明治の末期に建てられた当地の名門橋本家の居宅です。
庄屋を勤め明智町の先覚者であった橋本幸八郎本家の分家です。初めは米穀商(屋号 又一 襲名 為吉)を営み三代目は医院を開業されましたがその逝去により今回重要保存建物としてオープンしました。
比較的平穏な地勢、気象の為か平凡な住宅建築の中で当地をしては一級品の貴重な建物です。
敷地 227.3坪、建坪 76.9坪(延坪 123.9坪)
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橋本氏は大正路地のところでも名前が出てきた。地元の名士なのだろう。

鮮やかなデザインの和服が展示されていた。

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大正時代初輸入
ナショナル金銭登録器
アメリカ合衆国オハイオ州
ナショナルレジスター社
大正13年製
明智町 ゑびすや呉服店
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大正時代からこんなレジスターがあったのですね。

人力車もきれいなままにしてあった。

電話室。現在の携帯電話・スマホの盛況の時代を知ったら、大正時代の人はどう思うのだろう。

炊事場の様子。生活感にあふれている。

[題名]サイレント・ブレス
[著者]南 杏子
[発行]幻冬舎
[定価]650円
[発行日]2018/7/25
大学病院の総合診療科から、「むさし訪問クリニック」への“左遷"を命じられた37歳の水戸倫子。そこは、在宅で「最期」を迎える患者専門の訪問診療クリニックだった。命を助けるために医師になった倫子は、そこで様々な患者と出会い、治らない、死を待つだけの患者と向き合うことの無力感に苛まれる。けれども、いくつもの死と、その死に秘められた切なすぎる“謎"を通して、人生の最期の日々を穏やかに送れるよう手助けすることも、大切な医療ではないかと気づいていく。そして、脳梗塞の後遺症で、もう意志の疎通がはかれない父の最期について考え、苦しみ、逡巡しながらも、大きな決断を下す。その「時」を、倫子と母親は、どう迎えるのか?
自宅での看取りをテーマにした医療小説です。倫子は、いきなり在宅での看取りを行う医師になってしまいますが、経験を積んでいくうちに、施設に入れていた実父も自宅で看取るようになりました。いろいろと考えさせられる物語です。著者の略歴を見ると、大学の後輩でした。ますます応援しちゃいます!


大正村資料館は3階建てである。


銀行蔵であり、4階建てのようである。入口近くに滑車式昇降機が現存していた。繭を収納するための繭蔵だったようだ。


郷土玩具展になっており大量のこけしや郷土玩具が展示されていた。

数年前に訪れた山形県肘折地方のこけしも展示されていた。

こちらは青森県のねぶたなどの民芸品である。

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音と人のくらし
明治
日本人は本来空に消えゆく人の言葉、音を蘇生する機器を入手した。人はこの魔的な箱に写声器、蓄語器と多様に名付けて親しんだ。
大正
人は弦より流れる哀愁のセンリツを鍵盤に打たれるロマンの響きを身近な生活の中にとり入れくらしに豊かなバレーションを加える。日本人はこの箱を異口同音にチクオンキと呼んだ。
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レコードプレーヤーや蓄音機が陳列されていた。

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竹製の針
音の柔らかさと音盤を傷つけないことで愛好家に利用された。
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竹製のレコード針があるとは初めて知りました。

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陶磁器の針
第二次大戦中の金属節約のための日本人の工夫の作品
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陶磁器の針もあるなんて知りませんでした。

現存する昔のレコードです。写真の「田谷力三氏」の名前は聞いたことがあります。

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養蚕業の最盛期は明治時代末期から大正時代であった。大正5〜6年頃には繭1貫目(3.75kg)が米1俵(60kg)の額に匹敵するほどであり、大正時代までは「おかいこさま」と言われるように人間よりも大切に扱われてきて、蚕の飼育や上蔟の時はすべての部屋を蚕室にあて人間は土間や板の間にむしろを敷いて寝起きしたほどであった。昭和10年頃まで養蚕は農家の現金収入の道として盛んに飼育されてきたが、昭和12年頃から戦争により、食糧増産の国の施策で桑畑は次第に畑として食糧の増産に切り替えられ、養蚕は衰退していった。
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昔の繭蔵だった建物だけに繭や養蚕の歴史が紹介されていた。

サッポロビール、リボンシトロンのポスター。芸者さんだろうか。

メンソレータムなどの看板。

サンタクロースメリヤス。大正時代からサンタクロースの話があったのですね。


当時の薬の袋です。痛み止めや下痢止めなどの急性期の薬が目立ちます。

大正モダンのファッションのイラストです。

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時事新報
ダブルフロー 二色万年筆
最高権威! 斯界の誇り!
1本のペン先から黒赤青紫其の外何でも2色だけは自由自在に出る
欧米に於ても出来なかった大発明、専売特許品
製造元 東京工業株式会社
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2色の万年筆です。画期的な商品だと思うのですが、今では使われていないようですね。何か問題があったのでしょうか?

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大正村資料館(旧銀行蔵)
岐阜県恵那郡明智町は、県の東南端にある高原郷で附近の丘陵は海抜210mから823mにある南へ傾斜した寒冷地。そのため夏場の涼しさは想像以上です。この涼しさが良質の繭を産出します。明治の初め頃から、中馬街道、南北街道筋の交通が情報源となって農作物の収穫の少ないこの地に、養蚕を副業とする農家が増えました。正面3階の建物(銀行蔵)は、当地の先覚者橋本幸八郎氏の設立した濃明銀行のもとで繭蔵として使われていました。
明智町指定文化財
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ここが昔の郵便局です。

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逓信資料館(旧郵便局)
この郵便局は、明治8年開局の歴史をもち明治30年には電信業務も兼ねたというこの地方での郵政業務の草分けで、誇り高い局舎でもあります。
大正時代にはモダンな出庇に欄間風の彫り物を加え、局舎全体をペンキ塗りにした装いは、大正の役場や交番を加えても、数少ないモダン建築の一つでした。
明治、大正、昭和の風雪に耐え、戦後一般民家になりましたが、その面影を余すところなく伝えています。2階の彫り物のある手すりもそのまま残っていて大正生まれの郷愁をさそいます。
現在の建物所有者や、郵政省、NTTのご好意によって、さまざまな郵便、電信資料が展示されています。
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