
明智駅に戻ってきました。次の列車まで少し時間があります。駅舎の近くには「明智光秀公ゆかりの地」という石碑がありました。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀ですから、脚光を浴びるかもしれませんね。

明智駅前プラザを覗きましたが地元の人が集って談笑しているようでした。


駅舎には鉄道グッズの売店がありました。

500円の手ぬぐいを購入しました。


そして鉄カードも。コレクションしている人がいるのでしょうね。

明智駅から岩村駅までの切符を購入。次の極楽駅までと料金が同じため、極楽行きとなっています。まるで本当の極楽へ行けるようですね(笑)




明知鉄道では「じねんじょ列車」、「枡酒列車」、「孫とおでかけふれあい列車」などのイベント列車が運行されており、また「SL乗車体験」も開催されています。工夫を凝らしていることがよくわかります。

[題名]ツバキ文具店
[著者]小川 糸
[発行]幻冬舎
[定価]600円
[発行日]2018/08/05
鎌倉で小さな文具店を営むかたわら、手紙の代書を請け負う鳩子。今日も風変わりな依頼が舞い込みます。友人への絶縁状、借金のお断り、天国からの手紙……。身近だからこそ伝えられない依頼者の心に寄り添ううち、仲違いしたまま逝ってしまった祖母への想いに気づいていく。大切な人への想い、「ツバキ文具店」があなたに代わってお届けします。
「ツバキ文具店」というお店は文房具を売るだけでなく代書屋でもある。今でも代書屋はあるのでしょうか? 私は代書屋を利用したこともありませんし、どこにあるかも知りません。まぁそれはよいとして、いろいろな依頼をこなすのには、文章だけでなく、紙の材質や筆記用具の選択も大切だと知りました。そして今はなき祖母への手紙をしたためてエンディングです。ちょっと目がうるうるしてきました。

15時16分発の列車に乗る。



列車が入線してきた。恵那から乗ってきた時と違って、この列車は空いている。

181223b野志〜山岡


山岡駅舎にはかんてんかんがある。この地域では寒天が名産らしい。

かんてんかん便りもある。12月4日から冬の新メニューの華御膳(冬)~雪化粧~がスタートしたようだ。

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森の列車カフェ
山岡駅の建物の奥の明知鉄道でお役目を終えた列車が、素敵なカフェとして活躍しています。窓から四季折々の花々が咲き、その中をのんびりと明知鉄道が走っていくところを見ることが出来ますよ!! 車窓を楽しみながらお食事やデザートを召し上がって頂けます。
縁結びの神社
森の列車カフェの運転席が縁結びの神社になりました。
縁結びで有名な島根県八重垣神社の主宰神をお祀りしております。
夫婦和合・授児・安産・厄難除・災難除のご利益も与ることができます。
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いろいろな努力をしている鉄道であることがよくわかる。
明智1516ー1536岩村 明知鉄道


そして西町一丁目商店街を歩く。

「半分、青い」の舞台 恵那市へようこそ! の幟が町のいたるところにある。町おこしへの盛り上がりがわかる。

「岩邑カステーラかめや」の看板と「ようこそふくろう商店街」という穴あきパネルがあった。ドラマの中ではふくろう商店街の設定になっていたようだ。


実際のお店とドラマの設定とが比較してあった。渡辺床屋は「銀巴里理髪店」、坂田は「オシドリクリーニング」、岡田洋服店は「蕎麦処松善」、あけぼの書房は「羽鳥衣料品店」、土屋自転車店は「棚橋自転車商会」、竹内左官店は「山田畳店」、万さは「伊藤新聞」、西尾家は「ノーノードライ」、かんからやは「大瀬良たばこ店」、荻山家は「日本料理 清流」という具合である。

水野ガラス店があった。営業していないようであるが。

明るいタッチの穴あきパネルもある。





家の軒先の青い暖簾には「初子」「久美子」「美千代」「和代」「あつ子」といったその家の女性の名前が書かれている。これはは、岩村城の城主が女性であったことにちなんでいる。

今夜の宿は岩村山荘でまだまだ歩く必要がある。

常夜灯があったので、ここを左折する。

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上町常夜灯
寛政7年(1795)、上町・中町の有志により、ここから約100m南東の上町木戸付近に建立したもので、銘には「明和二乙酉秋創立寛政七乙秋再建」とある。戦前に国道257号沿いに移されていたが、昭和62年(1987)、岩村城創築800年を機にここに移された。城下町は江戸時代に度々大火に見舞われたことから、火伏せ(神仏の力により火災を防ぐこと)を祈願して建立したと伝えられる。正面に大神宮(伊勢神宮)を配して天下泰平を、左側に秋葉大権現を配して火伏せを、右側に金比羅大権現を配して招福繁栄を願ったものである。
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坂を登ると右手に太鼓櫓が見えてきた。

そして左側には岩村山荘の看板がみえた。地図によると岩村駅から1.7kmの距離だが登り坂が続いたので少し疲れた。


外観は山荘というよりお城のようだ。岩村城を模したものだろう。

昨夜は部屋に戻って大正浪漫亭で買ったプリンを食べてから、ゆっくりと休むことができた。
そして朝食の時間だ。
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おはようございます
朝ごはんは健康を思い「まごわやさしい」を基本にしています
「ま」まめ類、「ご」ごま類、「わ」わかめ海藻類、
「や」やさい、「さ」さかな、「し」しいたけ類、「い」いも類
白飯は「農村景観日本一」富田・大円寺コシヒカリ米です
手作り「しそ味噌」「あじめ味噌」をごはんのお供にお召し上がりください
(売店にて好評販売中)
〜皆様にとって良き1日になりますように〜
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「感謝」と書かれた小さな紙に上記の文字が書かれていた。

湯豆腐、赤だし、焼きのり、茶わん蒸し、とろろ以外に写真のような様々なおかずが出てきた。

今日は昨日と打って変わって快晴なのだ。お城を模した岩村山荘もご覧のような輝きである。空は「半分」どころか「全部」青い!(笑)

今朝はまず岩村城跡へ登る。


坂を800mほど登るのである。

坂を少し登ると下田歌子先生の略伝があった。
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近代女子教育の先駆者 下田歌子先生 略伝
下田歌子先生は安政元年(1854年)に岩村藩士 平尾しゅう蔵の長女としてこの地に生まれ、鉐(せき)と名づけられた。明治4年(1872)18才で父の元へ上京、翌5年に宮中の女官に登用された。宮中での歌会にいつもすぐれた和歌を詠み昭憲皇太后より歌子を名を賜った。
(中略)
明治26年に欧米へ出張して女子教育を視察、同32年(1899年)に実践女学校及び女子工芸学校を創設して校長となった。現実践女子学園である。
(中略)
先生は女子教育に一生を捧げ学者であり歌人であり、社会奉仕家で意志強固、熱弁家で男子を凌ぐ、明治・大正の日本未曾有の女傑で才色兼備の女性であった。昭和11年、83才で死去した。
明治41年特旨を以って 従三位勲三等に叙せられた。
恵那市教育委員会
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実践女子学園の創始者が岩村の出身なんですね。

下田歌子先生の顕彰碑。

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下田歌子勉学所
(中略)
歌子女史は5才で俳句をつくり和歌を詠み7-8才にして美事な韻を踏んだ漢詩を賦し、神童と呼ばれた。
しかし、女であるため、すぐ近くにある知新館に学ぶことは許されなかった。
(中略)
この室は父の書斎であり、女史の勉強した室である。
幼い頃から女史の胸中に秘かに燃えていた炎は、女というだけで知新館へ入学できなかったという反発であった。
18才で上京し、やがて実践女子学園を創立するにいたった苦難の道を進むのを支えたのは、この炎であった。
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ここが勉学所である。

そして勉学所のそばには銅像がある。

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三好学博士像
環境があって そこに人間が存在する 三好学
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三好学博士の銅像もある。


かなり急な石畳の坂道を登っていく。アキレス腱とふくらはぎのよいストレッチになっている。このあたりは藤坂と呼ばれている。

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初門
直線的に伸びる登城坂でこの部分だけが、行く手を遮るように鉤の手に大きく曲げられている。有事の際にはここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていたため「初門」と呼んだという。岩村城の最初の関門である。
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写真のような坂道が続いている。

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土岐門
岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪となっている。絵図では薬医門または四脚門として描かれている。土岐氏を破ってその城門を奪い移築したという伝承からこの名がついた。廃城後に徳祥寺(岩村町飯羽間)山門として移築され現存している。
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畳橋
大手の入口は、高石垣と枡形門、三重櫓によって厳重に固められており、前面の空堀にL字形に架かる木橋を渡って内部に入るようになっていた。床板を畳のようにめくることができたことから、畳橋と呼ばれたという。
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畳橋を過ぎると石畳ではなく普通の山道になってきた。前日の雨で道全体が湿っているのですべらないように注意して登っていく。

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霧ケ井
霧ケ城と言われるもととなった井戸。敵が城を急襲したとき、この井戸へ城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると忽ち霧が立ちこめ城を覆いかくしたと云う伝説があります。この水は今も絶えることなく湧き出し、昭和62年に岐阜県の名水50選に認定されました。
岩村町
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こんな伝説があったとは。

この高さなのに確かに水が湧き出していた。

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菱櫓と俄坂
山の形にあわせて石垣を積んだので菱形になった、山城特有のものである。この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。
(中略)
中世の頃はここが大手門(正門)で大円寺城下町説もあり、大円寺へ通ずる険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で、普段は使わないが落城等の非常口として用いられた。俄坂もその意味がある。俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていた。
岐阜県指定史跡 岩村城跡
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そろそろ本丸跡が近づいてきたようである。

[題名]私が大好きな小説家を殺すまで
[著者]斜線堂有紀
[発行]KADOKAWA
[定価]610円
[発行日]2018/10/25
突如失踪した人気小説家・遥川悠真。その背景には、彼が今まで誰にも明かさなかった少女の存在があった。
遥川悠真の小説を愛する少女・幕居梓は、偶然彼に命を救われたことから奇妙な共生関係を結ぶことになる。しかし、遥川が小説を書けなくなったことで事態は一変する。梓は遥川を救う為に彼のゴーストライターになることを決意するがーー。才能を失った天才小説家と彼を救いたかった少女、そして迎える衝撃のラスト! なぜ梓は最愛の小説家を殺さなければならなかったのか?
奇妙な出会いでつながった二人。そして厳密には犯罪でもある奇妙な同居。その時点でミステリーです。遥川悠真の最後のプロットについての「それは小説なんかじゃありませんから。」と言い切る梓の一言。切ない物語です。


岩村城の特徴の一つの六段の石垣が見えてきた。この上が本丸跡であろう。


やっと到着した。

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本丸
本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が石垣城に構えられていた。東と北には一段低い位置に長局と呼ばれる細長い曲輪が付属する。正門は東曲輪側の東口門である。内部には施設はなく、広場となっていた。
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ここに本丸があったようだ。

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岐阜県指定史跡 岩村城址
岩村城は別名を霧ケ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜717mに位置し、全国の山城の中で最高地にあり、日本三大城の一つである。
(中略)
建物は明治維新により廃城され、後明治6年(1873年)に取り壊された。
岩村町教育委員会
岐阜県教育委員会
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海抜は717mと全国の山城の中で最高地にあるようだ。

本丸にも昇龍の井戸があった。海抜717mでも井戸があるのがこの場所が山城に選ばれた理由なのかもしれない。

遠くには雪をいただいた山々が見える。御嶽山などの中央アルプスなのかなぁ。

その右側にも山々が見える。

本丸の石垣を下から望む。空が青々しい。

石畳を降りてきた。濡れた坂道は登りより下りの方が気を使う。岩村山荘の近くに佐藤一斉の座像があった。

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佐藤一斎翁顕彰碑建立趣意
幕末最高の思想家佐藤一斎は「志こそが人間のレベルを決まる!」といい、志を養うべきことを説き、その思想を著書「言志四録(言志録、言志後録、言志晩録、言志耋(てつ)録)」などを書き残しました。
碑文の「三学戒」は言志晩録の一節で最も輝いている言葉です。
ここに全国各地300余名の賛同者の浄財により、一斎翁の「三学戒」を刻み、永く後世に伝えんとするものです。
平成8年10月19日
佐藤一斎顕彰碑建立実行委員会
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「三学戒」が書かれている。
「少くして学べば 則ち壮にして為すあり
壮にして学べば 則ち老いて衰えず
老いて学べば 則ち死して朽らず」
学ぶことの大切さを教えている。

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紺屋「土佐屋」
土佐屋の主屋は、安永9年(1780)頃の建築であると推定され土間ミセの商家(職人)形式の町家であり、岩村の江戸時代の町家を検証する上で、その歴史的価値も高い。建物の保存に当たっては、江戸時代の状況を出来る限り忠実に復元し、伝統工芸と町屋建築を併せて学べるような施設とした。
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土佐屋 主屋
主屋は、今から200年以上前に建築されたものです。通りドマ・一列三間型で、通りドマがやや広めに造られていることを除けば、当時の町屋の典型的な間取りと言えるでしょう。当時、表のドマには染壺が据えられ、職人が生糸や布を染めていたものです。表のドマの天井が真っ黒に煤けているのは、染料を温めるために火を焚いていた名残といえます。
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紺屋
江戸時代には染屋を紺屋と呼んだように、紺染めが多く原料は藍で、藍甕に糸や布を何度も入れて染めあげました。
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紺屋の土佐屋も見学できるので中に入ってみた。

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天正疎水
天正3年(1575)岩村へ入城した河尻秀隆は、城下町形成のために城下町を西方に移すべく、まず岩村川左岸を東から西へ通じる道路を中心に左右それぞれ2本ずつ、4本の用水路を設置しました。
こうして、まず道路や用水など整備を整えてから人の住む家を建てることを都市計画といいますが、河尻秀隆によってその後の岩村町の基礎が築かれたといえます。
この用水を天正疎水と言いますが、400年を経た今も、家々の下を流れ、生活のために役立っています。
恵那市教育委員会
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これが天正疎水で今でも水が流れている。

店の奥には藍甕が所狭しと並んでいた。

機織りの機械も展示されていた。

伝来菓子のかめやである。カステーラも人気があるらしい。

あらゆる場所にある幟。

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下町升形
升形は、道路を直角に曲げ、敵が容易に侵入できないようにしたり町の中を見通せないようにしたりしたもので、岩村城下町では、下町、新市場、新屋敷の3箇所の町の入り口に設けられていた。
ここ下町の升形は、城下町の西の入り口にあたる。岩村から名古屋や中山道へ向かう街道の起点となっており、3箇所のうちでは最も規模が大きかった。
(以下略)
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京屋建具店。

明るいと写真が映える。

半分、青い関連のポスター。

新聞屋さん。



「おしゃれ木田原」になったやすだや洋品店の前を通って岩村駅へ向かう。

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伝鴨長明塚
「方丈記」の作者、鴨長明(1155-1216)は、下鴨神社(京都市)の禰宜の次男に生まれ、和歌や管弦の道を極めました。50歳のとき、宮司に推挙されましたが実現せず、失意のうちの出家し、方丈(一丈約3m四方)の庵をむすんで隠遁生活に入りました。
口伝によれば、衆人の前で秘曲を披露して鎌倉を追われた長明は、遠山景廉の好意で岩村の両家(現在の領家)に逃れ、半年を過ごした後、病を得て入寂したといい、「思いきや 都を余所に はなれ来て 遠山野辺に 雪消えんとは」という辞世の歌が伝わっている。
(以下略)
平成20年1月 恵那市教育委員会
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岩村駅の近くには鴨長明塚があった。

[題名]九十九書店の地下には秘密のバーがある
[著者]岡崎琢磨
[発行]角川春樹事務所
[定価]620円
[発行日]2018/11/18
訳あって入社二年で会社を辞め、自信をなくしていた長原佑。ある日訪れた書店で、謎めいた女性店主から“仕事を探しているなら、今夜この店にもう一度来て”と告げられる。再訪した佑が案内されたのは、書店の地下を改装した秘密のバー。そこで店主のトワコさんから言い渡された、思いがけない“仕事”とはー。夜ごと悩みを抱えた人が訪れる、小さな書店とバーの日々。
「珈琲店タレーランの事件簿」の著者の最新作。なかなか面白い設定である。昔からある九十九書店の地下にあるバーでの不思議な四つの話の連作短編集。バーの入口は昼間は書店のラックで隠されていてわからない。まさに「秘密のバー」なのだ。珈琲からカクテルに飲み物を変えての作品である。作中にいろいろな本が登場するのも面白い。第二弾を期待したい。

岩村駅に着いた。

駅前には佐藤一斉の言志録があった。

佐藤一斉、下田歌子、三好学は岩村の三偉人だそうだ。

駅舎内のキッチンゆらでホットコーヒーを飲む。ここでは写真のような岩村駅丼を食べることもできる。岩村駅丼は400gで600円、城下町盛りは700gで1,000円、お城盛りは1600-1700gで1,800円となっている。お店の女性に「お城盛りを食べ切る人はどのくらいいるのですか?」と尋ねると、壁に貼られた写真を指差し、「この写真の方々はお城盛りを食べ切った人たちです」ということだった。写真をみると、かなりがっしりした人が多かった。

五平餅ストラップがあったので購入した。

岩村で昼食を食べてから12時57分発の列車で恵那へ向かう予定であったが、1本前の列車で恵那へ向かい恵那駅近くで昼食を食べようということになった。11時49分発の列車(急行大正ロマン2号)には「月曜運休」の文字が! 今日は祝日の月曜日だ。

よくよく見ると「休日の月曜日は運転」となっていた。念のため駅員さんに確認すると、今日は運転しているとの返事を得てホッとする。

岩村から恵那までの切符を買い列車の到着を待つ。

ホームには岩村駅名標、岩村城天守閣、石垣、女城主、てつじぃなどが出迎えてくれていた。

ふと見上げると頭上には「美濃国岩村城 女城主の里」と書いてある。

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腕木式信号機復元
昭和9年6月の明知線開通時から平成16年3月末まで活躍した腕木式信号機は、役目を終え撤去されましたが、平成18年4月見学用として復元されました。
平成18年4月 明知鉄道株式会社
【別看板】
腕木式信号機
昭和9年6月明知線開業以来地域の皆様に支えられ親しまれてきましたが、近代化の波にのまれ平成16年4月電子連動化により姿を消すこととなりました。
地域の皆様の根強い要望にのり、恵那市の協力を得て、平成18年4月復元しました。
明知鉄道株式会社
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懐かしい腕木式信号機が復元されているらしい。


この二つがそうである。


構内踏切から恵那側を眺める。

こちらは構内踏切から明智側を眺める。

ホームは互い違い(千鳥式)に配置されている。
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