
これから(7)牛啼坂を進む。(8)弾正坂や(9)薬研坂を横切り(10)の高橋是清翁記念公園まで行こう。

江戸情報地図にもはっきりと「牛啼坂」と書かれている。

明治地図の(7)が牛啼坂である。

横断歩道の上からの眺め。左斜め前方の道を進む。

牛啼坂である。道路左側は現在ビルの工事が行われている。こちらは牛鳴坂と書かれている。
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牛鳴坂(うしなきざか)
赤坂から青山に抜ける厚木道で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。さいかち坂ともいう。
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皀角(さいかち)の花がたくさん咲いていたのだろうか?

なんだか立派な門が見えてきた。

山脇学園という私立女子校の敷地内にあるようだ。

説明には次のように書かれていた。
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重要文化財 武家屋敷門
長屋門、桁行21.8m、梁間4.7m、二階建、切妻造、片流面出番所付属、本瓦葺
この武家屋敷門は、江戸城東廊八重洲大名小路(千代田区丸の内東京中央郵便局付近)にあった幕府老中方屋敷の表門で、文久二年(1862)の火災後、当時の老中であった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)によって再建されたとみられる。
当時は桁行五十八間(実長約120m)にも及ぶ長大な長屋門であったが、左右両側が切り縮められて、門と左右番所のみが移築されている。数少ない江戸城下の大名屋敷遺構のなかでも、五万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門の形式をもつ唯一の遺構である。
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そして(8)の場所で右を向くとご覧のような弾正坂。
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弾正坂(だんじょうざか)
西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任せられることがおおかったため名づけられた。
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ちなみに弾正大弼とは、風俗の取り締まりなどをする役所「弾正台」の次官である。昔から風俗を取り締まるということが行われたいたとは興味深い。

このあたりはコミュニティバスのちぃばすが走っている。

そして(9)の薬研坂。薬研のような形をしているからということだ。
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薬研坂(やげんざか)
中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。
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しかし、明治地図を見るとここから少し離れた場所に「ヤケンザカ」と書かれている。時代とともに坂が移動したのかどうかは謎である。

これが薬研。底があり両端が高くなっている。

ここで国道246号と再合流した。
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