
(3)道標

(3)道標
明治地図にも玉川通りと世田谷通りは描かれている。茶沢通りはまだなかったのだろう。

世田谷通りは都道3号線だ。

分かれ道の場所に道標があった。立派な道標だ。

【正面】には「左相州通、大山道」と書いてある。

【左側面】には「右富士、世田谷、登戸道」と読める。

【右側面】には「此方、二子通」となっている。

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道標
銘文
(正面)左相州通、大山道
(左側面)右富士、世田谷、登戸道
(背面)天下太平国土安穏 寛延2年(巳巳)建立 以下略
(右側面)此方、二子通
年代
寛延2年(1749)、文化9年(1812)再建
伝来
大山道は、矢倉沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期_ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分れ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。
大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸町人などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。
この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピック(注:1964年のもの)の道路拡張などにより点々と移されたが、昭和58年5月に三軒茶屋町会結成50周年記念事業の一つとして、元の位置近くに複された。
備考
一、この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。
一、相州通・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。
一、富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。
昭和59年3月 世田谷区教育委員会
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都市開発の中で、埋もれないでよく残っていたものだなぁ。

手ぬぐいのこの道標のことなんですね。

エコー仲見世など路地裏の商店街もあり、個人的には好きな街だ。
三軒茶屋は、江戸時代に大山街道が世田谷上町へ向かう大山道(上町線)・登戸道と、新町方面に向かう大山道(新町線)とに分離する三差路に、三軒の茶屋(田中屋、信楽(石橋楼)、角屋)があったことから名づけられた。
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