
(34)高札場
(35)荏田城址
(36)小黒谷
(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂

(34)高札場
(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂

国道246号線を横切り、荏田交差点を直進する。

その先のセブンイレブンのある交差点に(34)高札場があった。ここを左折する。

そして直進する。

布引橋を渡る。

(36)小黒谷を進む。

右側には(35)荏田城址が見えている。

このあたりは急傾斜地になっており崩壊危険地帯らしい。

しばらくすると国道246号線と合流する。

合流地点に大山街道ステッカーを発見する。

その近くに横山医院の看板があった。
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「社会福祉法人 福田会の委託による 里親斡旋の地 横山医院」
イ、明治維新により四民平等・秩録処分(武士の棒給の支拂停止)
ロ、明治29年(1896)三陸の大地震・大津波
ハ、明治39年(1906)東北地方の大飢饉
イ、ロ、ハ等により多くの孤児・捨子・身売りなど貧困無告の子供達が生じた。明治9年佛教会は宗派をこえて(臨済・天台・真言・日蓮・浄土・時宗)棄児救済のため福田会を結成する。後、育児院を1879年(明治12年)設立する。
横山医院初代院長横山三省(1835~1916)は、明治37年より福田会の委託を受け、乳呑み児・幼児を地元の母乳の溢乳する産後の主婦に_養親として、これらの子供達の養育を斡旋した。
[養親の住居]は
都筑郡山内村(元石川・荏田)、中川村(中川・大棚・茅ヶ崎・牛久保)、中里村(市ケ尾・鉄)、都田村(池辺・東方)
橘樹郡宮前村(宮前・馬絹)、柿生村(柿生・王禅寺)であった。
里親には毎月里扶持(養育費)と盆・暮には皇后陛下より着物・反物・お菓子が下賜された。
里子の出身地は北海道から沖縄まで日本全国と朝鮮であり総数595名に及ぶ子供達は5歳になると福田会にかえり小学校に入学、卒業後は職を身につけたり奉公に出たりしている。
里子の中には養親に気に入られ養家に残り成人し一家をささえた者10数人に及ぶ(里流れと言う)。
福田会は、現在東京渋谷区広尾で社会福祉法人として児童養護施設・福祉型障害児入所施設・老人ホーム等を運営している。
この事業は昭和20年(1945)敗戦のため里扶持が途絶えるまで41年間続いた。この斡旋を担ったのは横山医院初代院長 横山三省、三代院長 横山謙次郎、四代院長 横山巌である。
平成27年10月吉日 横山博 記す。」
写真は「明治41年皇后陛下より御下賜品を受け取るために横山医院に集まった里親・里子達。」
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横山医院の方々は社会福祉法人のひな型として里親などの斡旋をしていたのですね。素晴らしいです。
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