JR東日本カレンダー2020/04

4月:D51 498 SLぐんま みなかみ:上越線 渋川〜敷島
「D51 498」は1940年製造。1115両製造された「D51」のうち498番目に造られた機関車です。「D51」は「デゴイチ」の愛称で親しまれ、週末を中心に「SLぐんま みなかみ」として上越線・高崎駅〜水上駅間の他、「SLぐんま よこかわ」として信越本線・高崎駅〜横川駅間で運行しています。「D51 498」は1972年に引退後、上越線後閑駅に保存されていましたが、1988年に大宮工場で修理復元されました。2020年4月には、こちらの写真で「D51 498」が牽引している旧型客車の全ての車両をリニューアルし、ラウンジカーを新設します。
152高札場:大山街道(5)

(37)目黒川にかかる橋

(37)赤丸の場所

目黒川の手前に交差点がある。平成地図では橋の右手前に交番の地図記号があるが、交番は交差点の左手前にあった。

目黒川を越えたすぐ左側に高札場跡があった。

昔はいろいろな御触書(おふれ)が出ると村人たちがこの周りに集まったのだろうなぁと思いをはせる。
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高札場
高札は基本的な法令を板札に墨書きし、庶民への法令の徹底を意図したものです。禁令の掲示は奈良時代からみられますが、江戸時代に発達し、明治6年(1873)まで続きました。明治新政府は慶応4年(1868)旧幕府の高札を撤去し、新政府が定めたいわゆる「五榜の掲示」を掲げさせました。
高札を掲示する場所を高札場といい、村では名主の家の前、村の中心は主要な街道が交錯する交差点といった場所に設けられていました。下鶴間村には二か所あり、そのうちの一か所がこの付近にあったことが絵図から分かっています。
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右から順にみていこう。
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慶応4年の太政官高札
徒党、強訴、逃散を禁止したもので、それを発見したときには役所へ申し出をすれば、褒美を与えるとしています。
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慶応4年の太政官高札
キリシタン禁止を定めたものです。
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明治3年の太政官高札
火付、盗賊、人殺、贋札を作る犯罪者などを発見したときには役所へ訴え出ることを定めたものです。
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高札場のすぐ横には大山街道のステッカーがあった。
弁当屋さんのおもてなし(5) まかないちらしと春待ちの君

[題名]弁当屋さんのおもてなし(5) まかないちらしと春待ちの君
[著者]喜多みどり
[発行]KADOKAWA
[定価]600円
[発行日]2019/5/25
遅めの桜が咲き始め、ようやく春が訪れた北海道。お互いの思いを再確認した千春とユウだったが、千春の帰任期限は刻一刻と迫っていた。このまま札幌で転職してユウとずっと一緒に暮らすか、それとも遠距離恋愛か。自分が本当にやりたいことは何か悩む千春に、ユウがお弁当に込めたメッセージとは?そして最終的に千春が選んだ生き方は?北海道の旬の幸がたっぷり味わえる、ほっこりお弁当ものがたり第5弾!
人気シリーズ第五弾! 個性的な登場人物がいろいろ出てきて楽しい物語。そして千春とユウの恋の行方は・・・。 食べ物は人を癒し、元気にする。特にお弁当は、食べ物の箱庭であり、メッセージを込めやすいのかな?
153下鶴間ふるさと館:大山街道(5)

(36)下鶴間ふるさと館

赤丸あたりか。

高札場跡の裏側に建物があった。これが下鶴間ふるさと館だ。

旧小倉家が復元されており展示館になっている。
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大和市下鶴間ふるさと館のご案内
ふるさと館には市指定重要文化財の旧小倉家住宅母屋と土蔵が復元されています。母屋は安政3年(1856)に建築されたもので宿場の商家建築として県内でも数少ない建物です。建物の床材から、墨で書いた黒船の絵や「安政3年」という年紀が発見されています。土蔵は前身建物の古材を用いて大正7年に同じ規模で再建されたもので、商家の付属建築です。一般的に袖蔵といわれ、商品などを保管しておくものです。
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外壁には大きな写真があった。明治4年の下鶴間宿の様子だ。「Tsuruma」とあるので、鶴間と下鶴間で一つの宿だったのかもしれない。
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下鶴間宿 The Village of Tsuruma(明治4年)横浜美術館蔵
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下鶴間ふるさと館の全景。

「秋の下鶴間宿」という復元ジオラマがあった。

中央を横に走る道が矢倉沢往還で、矢印が下鶴間ふるさと館。右へ行くと長津田(横浜市)方面になる。

当時のよろず屋にはいろいろな薬品が置いてあったようだ。
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小倉家と薬
小倉家は幕末の創建時から昭和20年代初め頃まで雑貨商を営んでいました。4代目祐一氏の時代(昭和初期)に金物を多く扱うようになり、「金物屋」と呼ばれるようになります。その当時のものと思われる「小倉祐一商店」の「布袋」には、「建築材料、和洋金物、薬品売薬」と記されており、「万屋」と呼ぶにふさわしい商店であったことが伺えます。
薬品・医療用品は、軟膏、丸薬等の飲み薬、座薬、殺虫剤、注射液、石鹸、栄養剤、シッカロール、薬品、マスク、分娩用紙、染料、整髪料、目薬、蚊取り線香など本当に多岐にわたっています。当時の「薬屋」にこれだけの品揃えが必要とされていたことは、周辺の農村部で必要とされていたことにほかなりません。農村部での医薬品の利用状況を知るうえでの大変貴重な資料をなっています。
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征露丸もよく売れたのでしょうね。今でも使われてますからね。
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征露丸(正露丸)
木クレオソート(樹木を原料とするフェノール系化合物の混合物)を主成分とした吐瀉薬。
明治35年(1902)、「忠勇征露丸」と名付けられたもの。日露戦争は発売直後の明治37-38年(1904-05)。40数年後第二次世界大戦終戦。他国を征服するという名称は国際信義上好ましくない、との理由により、「正露丸」と名称変更された。今では、さまざまな医薬品製造会社から「正露丸」の名称で販売されているが、現在でも「征露丸」の名称で販売している製薬会社もある。
ロシアとの関係悪化、日露戦争の勝利、ポーツマス条約に対する世論の反発といった世情により、「征露」という言葉は当時の流行語だった。世の中には、「征露画報」「征露戦報」「征露蚊帳」などさまざまな「征露」商品があふれた。
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高木軍医の洞察力が森軍医を上回った有名な話です。
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征露丸と文豪
日清戦争(明治27-28(1894-95)年)当時、日本陸軍の戦没者の3分の1は戦闘による死者ではなくビタミンB1の欠乏による脚気での死亡者であり、脚気対策は陸軍が解決すべき大問題となっていた。当時はビタミンが発見されておらず(最初のビタミンの発見(B1)は明治43(1910)年)、脚気は原因不明の病であった。日本独特の風土病、白米に毒物が含まれているなどが考えられていたが、陸軍で脚気対策を担当していた森林太郎軍医は未知の細菌感染によるものと考え、日露戦争では殺菌効果を期待して「征露丸」を兵士に服用させることとした。下痢や腹痛には効果があったものの脚気には効かず、30,000人近い兵士が脚気により死亡する結果となる。
一方海軍では、脚気は白米を主食とする日本人の栄養の偏りによるものという高木兼寛軍医の仮説を元に、主食にパンや麦飯を採用していたため脚気による犠牲者はほとんど見られなかった。
脚気細菌原因説の軍医森林太郎、森鴎外その人である。
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こんな提灯も飾られていた。

薬研坂や薬研掘などで名を残している。
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薬研(やげん)
生薬をすりつぶす道具。
鉄や合金、陶器などでできています。
生薬には金属をいやがるものもあるので、木でできた薬研もありました。
舟のかたちのうつわに、コマを横にしたようなかたちの刃を前後に転がして使います。
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渡辺崋山の「游相日記」には下鶴間宿の様子が書かれている。
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まんじゅう屋の家(「游相日記」より)
江戸時代後期の南画家・蘭学者として知られる渡辺崋山は、天保2年(1831)9月三河国(愛知県)田原藩主の異母弟三宅友信の命を受け、友信の実母お銀を訪ねるため相州厚木に旅をします。この旅の様子は崋山が書き記した「游相日記」によって知ることができます。
崋山は9月20日江戸を出発し、翌21日に下鶴間村の旅籠「まんぢう屋」に宿をとりました。この時の様子をまんじゅう屋のスケッチとともに記しています。
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154不動明王・鶴林寺:大山街道(5)
155地蔵尊・まんじゅうや跡:大山街道(5)

地蔵尊、(41)まんじゅうや跡

明治地図では赤丸あたりであろう。

ゆるやかな登り坂を進む。

すると右側に地蔵尊があった。

その隣には常夜燈の石碑。

そして渡辺崋山が宿泊したまんじゅうやの跡地である。
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渡辺崋山とまんじゅうや(土屋家)
江戸時代後期の洋学者で、画家として知られる渡辺崋山は、第十代田原藩主三宅康明の弟友信の命により、高座郡早川村(綾瀬市)に住む友信の生母お銀の消息を尋ねるため、天保2年(1831)9月20日、弟子の高木梧庵といっしょに江戸の青山を立ちました。その日は都築郡荏田村(横浜市緑区)に泊まりましたが、翌21日には矢倉沢往還下鶴間村に着き、俗に「まんじゅうや」(土屋家)といわれる旅籠屋に1泊しました。
「まんじゅうや」は初代土屋伊兵衛が開いた旅籠で、饅頭も商っていたといいます。土屋家には、天保11年の「大山く組」という看板が残っています。これは江戸の町火消「く組」が、大山参詣の定宿としていたことを物語っています。
平成10年3月 大和市教育委員会
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156坂上厄除地蔵尊:大山街道(5)
157日枝神社:大山街道(5)
158山王原公園:大山街道(5)

(46)山王原公園

明治地図ではよくわからない。

このあたりは昔は山王原という地名で呼ばれていたらしい。

その名残がこの山王原公園にある。
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山王原公園
ここは、みんなの公園です。
次のことをまもり、たのしくなかよくあそびましょう。
1. 野球などのきけんなあそびはやめましょう。
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えっ、野球ってそんなに危険なものなのでしょうか? 公園で野球やサッカーをできなくして、「最近の子どもは外で運動しない」とは大人のエゴのような気がします。

こんな広い公園ですが、ほとんど利用されていませんでした。まぁ緊急避難場所にはなりそうですね。

農作物の無人販売所がありました。地物の野菜は美味しいですからね。
弁当屋さんのおもてなし(6)夢に続くコロッケサンド

[題名]弁当屋さんのおもてなし 夢に続くコロッケサンド
[著者]喜多みどり
[発行]KADOKAWA
[定価]600円
[発行日]2019/11/25
7月に入り、ようやく夏らしい気候になってきた北海道・札幌。晴れてユウと結婚の約束をした千春は、彼と「くま弁」で一緒に働く未来について考え始める。意を決してユウにその気持ちを伝えた千春だったが、返ってきたのは「自分の人生に巻き込みたくない」という予想外の反応で? 2人が見ている夢は同じなのかそれともー? 日々悩みは尽きないけれど、少しだけ前に進む勇気がもらえる北のほっこりお弁当ものがたり第6弾。
結婚の約束をしたユウと千春。そのまま二人で素直にお弁当屋「くま弁」をやるのかと思いきや・・・。 まぁ、「雨降って地固まる」ってことかな(笑)
159大山街道説明板:大山街道(5)

(47)大和歩行者専用道、鶴間二丁目交差点、(48)大山街道説明板

鶴間二丁目交差点は明治地図の赤丸の場所と思われる。

さらに旅を続ける。

マンションの手前に小さな公園があった。

ここが(47)の大和歩行者専用道である。元はなんだったのだろうか?

鶴間二丁目交差点を直進する。

左手に東京靴流通センターがあり、その前には鶴間駅前のバス停がある(逆光なので振り返って撮影)。

これが(48)の大山街道説明板。

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矢倉沢往還
この道路は矢倉沢往還とよ呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。
東京都港区青山を起点とし、南足柄市関本、矢倉沢、足柄峠へと至る街道です。
また、大山街道とも呼ばれ、江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道として栄えました。
(この石は、全国の「大和」という市町村で構成している「まほろば連邦」の加盟国である山梨県大和村より算出されている甲州鞍馬石です。)
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小田急江ノ島線の鶴間駅に着いた。今日の旅はここまでで終了。
鶴間1458-1506相模大野
相模大野1517-1537伊勢原
160鶴間駅:大山街道(6)
161道標:大山街道(6)

旧国道246号線を西に向かう。赤丸印あたりに道標があった。

明治地図では街道沿いに民家は少ない。

松屋を出てから国道246号線を右へ。

すぐに鶴間駅交差点の信号になる。

右側には船のオブジェが。居酒屋(とれたて酒場 山海船)の看板だった。

しばらく行くと西鶴間交差点。

その先の右側に比較的新しい道標があった。
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矢倉沢往還
この石は、全国の「大和」という市町村で構成している「まほろば連邦」の加盟国である茨城県大和村より産出されている御影石(花崗岩)を使用しています。
この道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。東京都港区青山を起点とし南足柄市関本、矢倉沢、足柄峠へと至る街道です。また、大山街道とも呼ばれ、江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道として栄えました。
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前回の鶴間駅到着する手前にも大山街道説明板があり、「まほろば連邦」加盟の自治体の石を使っていた。すごいな! まほろば連邦!

次は西鶴間小学校入口交差点である。
162泉の森入口:大山街道(6)
163大和斎場入口:大山街道(6)
164国道246号越え:大山街道(6)
ライオンのおやつ

[題名]ライオンのおやつ
[著者]小川糸
[発行]ポプラ社
[定価]1500円
[発行日]2019/12/3
人生の最後に食べたいおやつは何ですかーー
若くして余命を告げられた主人公の雫は、瀬戸内の島のホスピスで残りの日々を過ごすことを決め、穏やかな景色のなか、本当にしたかったことを考える。
ホスピスでは、毎週日曜日、入居者がリクエストできる「おやつの時間」があるのだが、雫はなかなか選べずにいた。ーー食べて、生きて、この世から旅立つ。
すべての人にいつか訪れることをあたたかく描き出す、今が愛おしくなる物語。
瀬戸内海に浮かぶ島にあるホスピスの物語。人生の最後をどのように過ごすのか? 超高齢社会の我が国でも話題になりつつあるテーマである。主人公は海野雫。彼女は30歳代。そのホスピスでは毎週日曜日にみんなが楽しみにしているおやつの時間がある。印象に残った言葉は「生きることは、誰かの光になること」。決してそんなに難しいことではない。私も人生の峠を越え、大病も経験した。あとはソフトランディングを考えてみようかな。
165さがみ野駅:大山街道(6)
166大塚本町:大山街道(6)
167富士塚庚申塔:大山街道(6)
169道標・渡辺崋山案内板:大山街道(6)

(12)渡辺崋山案内板

おそらく赤矢印の場所であろう。

このわかれ道の左手前に道標や案内板などがある。

ガイドブックには向かいのマンション内の公園に道標があるとなっているが、ここに道標がある。
「向二 右 小園・早川・綾瀬村小園」と書いてある。

こちらは「向二 右 国分・厚木 左 大塚・原町田」となっている。

道標の横に渡辺崋山案内板がある。
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崋山ゆかりの道
ここから右手に向かう道は、古東海道との言い伝えがあります。
天保2年(1831)渡辺崋山は、絵の弟子高木梧庵を伴って江戸から大山街道を下り、この古道から小園村に入り少年期に世話になった「あこがれのお銀さま」を訪ねたのでした。
崋山は本名を登といい、政治家として画家として、また幕末の先覚者として有名な人です。
昭和63年3月 綾瀬市教育委員会
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「ここから右手に向かう道」とは、3枚前の写真の左手に向かう道のことである。

向かいのマンション内の公園にはこんな石碑があった。

さらに歩みを進める。
170望地交差点:大山街道(6)
妻のトリセツ

[題名]妻のトリセツ
[著者]黒川伊保子
[発行]講談社
[定価]800円
[発行日]2020/2/27
理不尽な妻との上手な付き合い方とは。女性脳の仕組みを知って戦略を立てよう!
妻が怖いという夫が増えている。ひとこと言えば10倍返し。ついでに10年前のことまで蒸し返す。いつも不機嫌で、理由もなく突然怒り出す。人格を否定するような言葉をぶつけてくる。夫は怒りの弾丸に撃たれつづけ、抗う気さえ失ってしまう。
夫からすれば甚だ危険で、理不尽な妻の怒りだが、実はこれ、夫とのきずなを求める気持ちの強さゆえなのである(俄には信じ難いが)。本書は、脳科学の立場から女性脳の仕組みを前提に妻の不機嫌や怒りの理由を解説し、夫側からの対策をまとめた、妻の取扱説明書である。
「妻が怖い」「妻の顔色ばかりうかがってしまう」「妻から逃げたい」という世の夫たちが、家庭に平穏を取り戻すために必読の一冊でもある。
妻から渡された「妻のトリセツ」。妻はもちろん「夫のトリセツ」を読んでいる(笑)。男性と女性の脳の違いから、考え方の違い、そして言葉の違いという意味がわかります。結婚35年になる私もためになりましたが、子供が生まれたばかりの息子にも読んでほしい本です。
171馬頭観音:大山街道(6)
172道祖神・石橋供養塔:大山街道(6)

(20)道祖神、(21)目久尻川、(22)石橋供養塔

(20)道祖神を赤丸で、(22)石橋供養塔を赤三角で記した。

児童公園から坂をくだる。

正面には大山がくっきりと、と言いたいところだが山頂には雲がかかりはじめた。

さらに道を下り、つきあたりを右に曲がると右手に道祖神がある。

旧国道246号線に出て左に進む。

すぐある川は目久尻川。

それほど大きな川とは思えないが一級河川ということだ。

目久尻橋を渡るとすぐに国分コミセン前交差点。

そこを右折して目久尻川に沿って歩くと右側のフェンス越しに石橋供養塔がある。目久尻橋を石橋に架け替える募金活動を行った重田七三郎の功績をたたえてある。

ここを左折する。

細い道を進む。
173伊勢山自然公園・逆川碑:大山街道(6)

(23)伊勢山自然公園、(24)逆川碑

赤丸で伊勢山自然公園、赤矢印は逆川碑の場所。

伊勢山自然公園脇の道にでた。

ちょっと公園に寄ってみよう。

階段と坂道を登っていく。本当に「自然」公園でありところどころにベンチが置いてある程度だ。トイレもない。

公園から戻ると、そこは伊勢山公園前交差点。

交差点の右側に史跡逆川という石碑があった。

逆川とは逆の流れ方をしていた灌漑用と運送用に掘られた運河のことだ。日本最古の運河らしい。
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逆川の由来
逆川(さかさがわ)は大化の改新が行われたころ条里制による海老名耕地のかんがい用と運送用に掘られた川といわれています。
その全長は約2.5キロメートル、ここから凡そ1キロ上流で目久尻川を堰き止めて分水し、この地点で相模横山をよこぎり西北方に流れをとり、今泉境で耕地に注ぎ出ました。このような逆の流れ方をしていたので「逆川」の名が生まれたのでしょう。
なお舟着場と呼ばれたところから下流は日本最古の運河として平安中期まで利用されていたようでその遺構は今なお地下に眠っています。
後世、流れの向きを変えて「新堀」といい昭和15年ごろまで国分・大谷・今里・杉久保・上河内・中河内・本郷・門沢橋・倉見・宮山などの田をうるおしていました。
現在この地点より先は埋め立てられ舟着場付近のみわずかにむかしの面影を残しています。
昭和57年3月27日 海老名市教育委員会
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先ほどの目久尻橋と石橋供養塔で出てきた、目久尻橋にかけた石橋の石がこれである。
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この石は、その昔大山街道の交通の便をはかるため、目久尻川にかけた石橋の石で、大正12年の関東大地震のとき川に落ちたものを昭和52年12月河川改修のとき引き上げたものです。これに宝暦7年(1757)に国分の重田七三郎翁が企てた石橋勧進帳の木版が残っておりこの架橋のありし日を物語っています。
昭和57年3月27日
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174道標:大山街道(6)

(25)道標

明治地図では赤矢印のあたりであろう。このあたり(国分宿)の街道沿いにも民家が多い。南北の道は八王子道らしく、大山街道と交差し、とても賑わっていたらしい。

左へ行くと国分寺台へ行くが、ここを直進する。

右側に道標などが集まっている。

「東 江戸・つる間 南 藤沢・かま倉」

「西 大山・あつ木 北 八王子・ほしのやと」。ほしのやととは座間の「ほしのや観音」のこと。

さらに進む。

右側に案内板がある。

「史跡相模国分寺跡歴史公園案内板」で相模国分寺跡の説明がある。現在地のすぐ近くの赤い建物は(26)温故館だが、空き地になっていて何もない(一つ前の写真参照)。

仕方がないのでこの細い路地を通って相模国分寺跡に行ってみる。