
地図の(49)の田村渡し場跡碑へも寄り道です。

住宅地の中をちょっと迷ってしまいましたが、無事に田村渡し場跡碑を発見しました。

説明が書いてありました。
「田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。
平成十三年(2001)三月 平塚市」

短歌もありました。
「阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら 声あげにけむ ここの渡しに
中村清四郎」

こちらにも昭和時代の説明がありました。
「田村と田村の渡し場
田村の地は、古くから、坂上田村麿に由緒の地と伝え、箱根路につづく、陸奥への海道に沿ったところに、相模川の渡し場があった。鎌倉時代には、三浦半島六義村の田村の館があり、鎌倉武士が、しばしば往来したことは、史書にあきらかである。また、江戸時代には関東の霊域大山万尊社への、参詣道として繁昌した。田村の渡し場は、大住郡田村、高座郡一之宮村、同田端村の三村が管理し、渡し船・馬舟など四艘を常置していた。明治初年の記録に「川幅五百二十二間(約九三九米)、水流六十間(約一〇八米)、深さ三尺(約〇・九米)より一丈(約三〇三米)」とみえている。渡し場から、西方諸山岳の眺望の絶佳は、最も芳名で、詩歌の作品が多くのこっている。
昭和四十八年三月二十一日 平塚市観光協会」

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